ハルに風邪ひいた

駆け出し宇宙工学者が気が向いたときに書く方のブログ

リヴリーは死んだ。僕は生きている。

 

小学四年生の僕は、大人のイケない世界に足を踏み入れようとしていた。オンラインゲームを始めたのである。

『リヴリーアイランド』というそのゲームは、当時ゲームボーイアドバンスに大脳皮質の全てを支配されていた僕にとってはあまりに革新的だった。ゲームの内容自体は、たまごっちのように架空の生き物を育成するというだけなのだが、革新的だったのはオンラインチャット機能である。夜、ゲームをしながら離れた場所にいる友達とコソコソおしゃべりをするというその行為は、小学校で流行っていた他のどの遊びよりも背徳的で甘美な匂いをプンプン漂わせていた。林間学校の消灯後の「いっせーのーせで好きな女子の名前言おうぜ!」的なあのドキドキワクワクを、リヴリーアイランドは毎日僕に届けてくれるのだった。

そんなリヴリーアイランドで、僕には一人だけオンライン友達がいた。『瑠璃色ユアン』という名前のその人とは、好きなRPGゲームの話で意気投合し、友達になったのだ。僕、改めユーザーネーム『くぼゆう』はユアンさんに惹かれていた。名前も顔も知らないどこかの誰かと、名前も顔も明かさずにおしゃべりをするその背徳感。さながら仮面舞踏会にでも参加しているかのような気分に、くぼゆうはすっかり酔いしれていた。実際にチャットをした回数こそ少なかったけれど、そして名前も顔も知らなかったけれど、名前も顔も知らなかったからこそ、ユアンさんはどこまでも謎めいていて魅力的に見えたのだった。

 

 

 

『なぜ私たちは斎藤工に色気を感じてしまうのか』

俳優・斎藤工の色気について、哲学研究者の永井玲衣さんの分析が面白い。*1

 

彼の挙動はしとやかである。まるで彼のまわりだけ時間が止まってしまったみたいだ。そして、ミステリアスなまなざしをこちらに向けている。それだけで、わたしたちは斎藤工について想像を駆り立てられてしまう。

(中略)

しかし、わたしたちはそれを知ることはできない。彼の深奥を探究したいけれど、かなわない。

(中略)

大事なのは、その知の獲得に駆り立てられること、そしてその獲得が本質的に不可能であることである。

 

小学四年生のくぼゆうがユアンさんに感じていたのはまさしくこの色気だったのだろう。パソコンの画面越しの彼との会話は、熱っぽいくせにやけに温度感が失われていて、繋がっているはずなのに謎めいていて、それはそれまで生きてきた十年間で初めて味わうタイプの興奮だったのだ。くぼゆうは十歳にして色気とは何たるかを身をもって実感してしまった。なんともオマセさんなくぼゆうである。

 

 

 

 

昨年末からの数ヶ月、冬の夜空で尋常じゃない色気を放っていた星が一つある。ベテルギウスという星だ。冬の大三角にも属するこの代表的な一等星が、11月頃から急激にその明るさを失っていっていることが天文学界で話題になっていたのだ。何しろこの急激な減光は、ベテルギウスが死を迎えて最期の大爆発を起こす予兆かもしれないというので大騒ぎだったのである。これほど明るい星がもし大爆発すれば、人類史上でも稀に見る一大天文ショーになる。明日には爆発するんじゃないか、今この瞬間にも爆発するんじゃないか、と僕らの心を駆り立てるだけ駆り立てておいて、ベテルギウスはただ静かに哀愁たっぷりに、どんどん暗くなっていった。

 

ベテルギウスの色気は、斎藤工どころの騒ぎではない。斎藤工なら死ぬ気でネトストすればなんとか生きているうちに会うことぐらいはできるかもしれないし、もし運が良ければそのミステリアスな私生活の一部をこっそり覗き見できるかもしれない。近所のドラッグストアで鼻セレブなんかを買っているところを目撃できちゃうかもしれない。しかしベテルギウスには圧倒的に手が届かない。距離にして6000兆キロメートル。1秒で地球を7.5周するという光の速さで飛んで行っても640年もかかる。かたや人間の乗れる宇宙船は数十分かけてようやく地球を一周する程度のスピード感だ。宇宙船に乗って僕らがベテルギウスに直接会いに行くことなんて全くもって不可能なのである。

というか光が届くのに640年かかるということは、そもそも今僕らが見ているベテルギウスは今現在のベテルギウスではなく、640年前のベテルギウスである。たとえ今爆発していないように見えたとしても、それは640年前のベテルギウスが爆発していないというだけで、彼が今この瞬間に生きている保証は全くない。物理的に手が届かないどころか、今現在生きているか死んでいるかすらも知り得ることのできないという、最高のミステリアス。そして逆に今僕がこうして生きている映像がベテルギウスまで届くのは640年後で、どれだけ長生きしてもそのとき僕はこの世にはいない。なんという決定的なすれ違いだろう。ベテルギウスの色気は斎藤工よりも壇蜜よりも綾野剛よりも凄まじいけれど、彼と僕が同じ瞬間を共有することは決して、決して許されない。

 

 

 

 

ある日、くぼゆうのリヴリーアカウントにログイン不可能になるという事件が起こり、アカウントを新たに作り直さねばならなくなった。くぼゆうは焦った。くぼゆうの頭に真っ先に浮かんでいたのはユアンさんである。他の友達なら小学校で直接聞けばいいが、彼とはオンラインでしか友達でないので、覚えている情報だけを頼りに探すしかない。くぼゆうはユアンさんを探した。記憶を辿りに辿ってようやくユアンさんを発見し、興奮気味にユアンさんに話しかけた。

 

「おひさしぶりです!前のアカウントで『くぼゆう』っていう名前だった者です!」

 

「は、誰だよ」

 

「覚えていないですか?××っていうゲームのお話ししたくぼゆうです!アカウント変えたんです!」

 

「誰だよ、殺すぞ」

 

誰だよ、殺すぞ、それが彼の放った言葉だった。ユアンさんはそれからくぼゆうのことを激しく攻撃しはじめた。くぼゆうの掲示板に罵詈雑言を書き込み、くぼゆうがその書き込みを消すと、消したことをまたさらに攻撃的な言葉で批判してきた。どうしようもなくなったくぼゆうは、兄になりすました。「弟も反省しているので……」と一人二役で掲示板に謝罪の書き込みをした。それでも彼は聞く耳を持ってくれなかった。彼の友人と思われる人までもがくぼゆうへの攻撃に加担しはじめた。生まれて初めて体験するネットトラブルだった。しばらくしてこのトラブルは隣のクラスの先生の耳に入り、僕は職員室の小部屋に呼び出されて、泣きながら一部始終を話した。それから放課後、家に担任の先生が来て母親に事情を説明した。僕はその日からリヴリーアイランドを禁止された。

悲しかったというよりも、呆然としていたと思う。僕にとってのユアンさんは唯一無二でかけがえのない友達だったけれど、ユアンさんにとっての僕は名前のないネット住人の一人でしかなかった。少しチャットをしただけで友達になったと思っていたのは僕だけだった。僕の心を駆り立てるだけ駆り立てておいて、僕の知っているユアンさんはどこかに行ってしまった。魅力的で意地らしい、ひんやりとした色気の残り香だけを漂わせて。鼻腔に残る微かなにおいを嗅ぎながら、僕はぼーっとしていた。僕が見ていたユアンさんは本物だったのだろうか。好きなゲームの話で意気投合したあの時間は全部、僕の勘違いだったのだろうか。勘違いならいい。そうであってほしい。もしそうでないならば、色気というのはあまりに残酷だ。

 

 

 

光の速さは有限なので、とっても厳密なことを言うと僕の目に飛び込んでくるあらゆる映像は過去のものだ。僕の目に映る1メートル離れたあなたは3億分の1秒前のあなただし、たとえどれだけあなたに歩み寄ったって、1センチメートル先に佇むその瞳は300億分の1秒前の瞳だ。視覚の上では、僕らは「今この瞬間」を決して誰とも分かち合うことはできない。視覚の上では、僕らは決定的に孤独だ。

中島らもさんも同じことに言及し、彼の著書の中で一つの解決策を示していた。*2

 

人間の実相は刻々と変わっていく。無限分の一秒前よりも無限分の一秒後には、無限分の一だけ愛情が冷めているかもしれない。だから肝心なのは、想う相手をいつでも腕の中に抱きしめていることだ。ぴたりと寄りそって、完全に同じ瞬間を一緒に生きていくことだ。

 

決して埋めることのできない時間のずれを乗り越えるには、できる限り近くで相手の存在を受け入れていくしかない。その息遣いを、その声色を、温度感を、肌の手触りを、髪の匂いを、手の握り具合を、なるべく絶え間なく受け入れていくしかない。そこには、色気は存在しない。人間という生身の動物は、ツヤっとした画面越しのミステリアスな存在とは違って、きちんとリアルだ。きちんと汗の匂いはするし、きちんと顔にはシミもある。どうでもいい話を振ってくることもあれば、感情を露わにしてくることもある。生身の人間と対峙することは面倒くさくて恐ろしい。

色んなことがそうだ。旅行雑誌で見る『特集!神々の島・バリ島』みたいな記事にはこの世のものとは思えぬ神秘的な世界が広がっているけれど、実際に行ってみるときちんと蒸し暑いし、きちんと蚊やハエは多いし、車からはきちんと排気ガスが出ていて、雨はきちんとうっとうしい。テレビ番組『鶴瓶の家族に乾杯』ではやたら幸せそうな素敵な家族の姿が映されているけれど、きっとその家族もソファでいびきをかいて寝ているお父さんを邪魔だなと思うし、やたらとお風呂の長い姉に対してイライラもするし、ポチが散歩中にしたフンを処理するのはダルい。隣の芝はいつも色気たっぷりで、うちの芝はいつもきちんと芝だ。

けれど僕は、その面倒くささを愛したい。だって僕は本質的に孤独で、色気はあまりに残酷だから。面倒くさくて、生き物くさくて、時に恐ろしいものと正面から向き合うことでしか得られない何かを大切にしたい。それは、何かだ。色気たっぷりでミステリアスなベテルギウスとは決して共有することのできない何かだ。15年前にくぼゆうがユアンさんと決して分かち合うことのできなかった何かだ。甘美な香りのする色気もいいけれど、やっぱり僕は人と向き合いたい。面倒くさいことに巻き込まれたい。生き物のにおいに踊らされたい。「もう、父さんそこで寝ないでよ!」とか言ったり、「なんでいつも分かってくれないの!?」とか言われたりしながら、生きていたい。

 

 

 

 

 

 

驚きのニュースを目にした。

 

「ペット育成ゲーム『リヴリーアイランド』、16年の歴史に幕」

 

なんと3ヶ月前ぐらいにリヴリーアイランドはサービスを終了していたらしい。この記事を書いている途中で何気なく調べてみて初めて知って驚いた。3ヶ月前というとちょうど、ベテルギウスの減光で大騒ぎになっていた頃だ。んんん、なんというタイミング。検索画面をスクロールしていくと、サービス終了の知らせを聞いた長年の古参ユーザーたちのブログ記事が出てきた。そこには、自分の愛したリヴリーとの最期を思い思いの形で迎える様子が描かれていた。僕は口をちょっとだけとんがらせながら、彼らの思いの丈をさらさら読み流していく。

あれ、そういえば、『くぼゆう』のアカウントはあれから15年間どうなっていたのだろうか。たしかあの時パソコンを買い替えたか何かのせいで、パスワードの再設定ができなくなってアカウントにログインできなくなってしまったのだった。だとするとそのアカウント自体は15年間ずーっと生きていたことになる。この15年間、僕が小学校、中学校、高校、大学と歳を重ねている間、くぼゆうはずーっとずーっと冬眠状態ながらも生き続けていたのだ。生き続けていて、そして3か月前のある日突然死んだ。リヴリーの世界ごと、みんな死んだ。ユアンさんも、攻撃的な掲示板の書き込みも、何もかも死んだ。

 

今日も夜空にはベテルギウスが輝いている。オリオン座の右肩に位置する赤い星。そこから左の方へ冬の大三角がいつものように伸びている。のちの調査で分かったのだが、結局あの減光は爆発の予兆ではなく、ちょっとした気まぐれでいつもより明るさが落ちてしまっていただけのようだ。

「え、別に全然死ぬとかではないですけど?少し落ち込んでいただけですのでどうぞお構いなく」

と相変わらずの塩対応で輝くベテルギウス。おいコラ、心配したこちらがバカみたいじゃないか。

色気なんかに構わず生きてやる。意地でもお前より長生きしてやる。お前より儚くて、お前より面倒くさくて、色気の欠片もないたくさんのことと正面から向き合いながら、生きてやる。

 

*1:永井玲衣 なぜ私たちは斎藤工に色気を感じてしまうのか/色気を哲学する AM

*2:中島らも『サヨナラにサヨナラ』, 愛をひっかけるための釘 (集英社文庫) より

連載開始のおしらせ

東京大学のオンラインメディアUmeeTにて、連載を始めることになりました。前回の記事を読んでくれたUmeeT初代編集長の杉山大樹さんのお声がけで実現した企画です。気が向いた時に気が向いたことを書く超個人的なブログながら、自分以外の人間に良い時間を与えられていることは素直に嬉しいです。

このブログと同じく、宇宙を軸としたりしなかったりするエッセイを書きます。月1回ぐらいのペースで書いていく予定です。

 

僕のUmeeTトップページはこちら。

todai-umeet.com

 

 

しばらくこのブログの投稿はお休みになると思いますが、相変わらず気まぐれに何か書くかもしれません。おたのしみに。

それでも、まるい地球を選びたい

 

今年の正月休みは、実家の布団でフルタイムを過ごすはめになった。インフル・ザ・フィーバーである。

年末にかけての追い込みの半徹夜が響いたのだろう、帰省初日から順調に体調は悪化していき、いよいよ大晦日の朝にピーク。40度の熱、ほぼ幻覚のような夢、最悪の目覚めだ。助教の先生が黒い紐のようなものを寄せ集めて球体にして、『これがプロジェクトチームの総意である!』という謎の声明を発表するという恐ろしい幻覚だった。しかも何度寝直しても全く同じ幻覚が再生されるのだ。恐怖だ。かれこれ数十回連続で見た。さすがに40度熱が出ると人の脳みそはバグる。発症がもう1日遅かったら、危うくその幻覚が初夢になるところだった。それはそれで安部公房みたいな世界観の1年になって楽しかったのかもしれないけれど。

 

 

驚いたことに、母親がおそろしく優しい。昔は体調を崩そうもんなら、『てめえ、このクソ忙しいのによくも風邪なんか引いてくれたな!』と、極道の二文字をチラつかさせる勢いだったのが、今となっては『あんたも、せっかく帰って来たのに大変やったねえ。』などと優しく洩らすのである。チラつかせるのは聖母の二文字だ。

僕もいよいよひとり暮らしが長くなってきたので、こうやって手厚く看病してもらえると、もうこの上なく極楽で仕方ない。寝て、起きたらお粥が出てきて、また寝て、起きたらうどんが出てきて、おまけにハーゲンダッツまで出てくる。ああ、なんて僕は親不孝な息子なんだ……という背徳感すら、もはや心地よい。ああ、世界は僕を中心に回っている。ああ、僕は世界に愛されている。安全で、穏やかで、できるならずっとこうやってぬくぬくしていたい……。

 

 

ただ、これほどこの上なく幸せなのにどうしても1日中布団にこもっていると強烈な焦りを感じてしまう。僕はこうやって布団にうずもれたままどこまでも腑抜けて、堕落して、一生何にもなれず、どこにも行けず、世界と正常に関われないかもしれない、という焦りだ。普段の土日でこういう日があっても、どうせすぐ月曜日がやってくるので結局腑抜けることは(でき)ないのだが、インフルともなると強制的に寝床に縛られるので、この焦りは着実に、そして急激に膨らんでくる。

『お前は親不孝で、腑抜けで、世界中から見放されたダメ人間だ!そう、それがプロジェクトチームの総意である!』

数日前までバグっていた脳みそがすっかり真人間の顔をして声明を述べている。

ごめんなさい、ごめんなさい。役に立たなくてごめんなさい。

 

 

 

 

 

 

そんな時、僕は太陽系の動きのことを思う。

「僕らは地球に寝転がっているだけで秒速500メートルという猛スピードで動いているのです」とよく言われる。地球が自転しているからだ。秒速500メートル。100メートル走を0.2秒で走るスピードだ。ウサイン・ボルトが泣いてしまう。

ただ、それだけではない。僕らはさらに秒速30キロメートルで動いている。地球が太陽の周りを公転しているからだ。30メートルではない。30キロメートルだ、1秒で。箱根駅伝を2日間あわせても7秒で走り切るスピードだ。青山学院が泣いてしまう。

それだけではない。銀河の巨大なスケールで見ると、我々の太陽系全体も1つの点として銀河内をぐるぐる周っている。そのスピードは秒速240キロメートル。太陽も、水星も、木星も、ハレー彗星も、小惑星リュウグウも、そして僕らも、全て一緒になって秒速240キロメートルで銀河の中心に対して周っている。日本列島を10秒で縦断するスピードだ。JRさんが泣いてしまう。JALANAも当然泣く。

まだだ。直径10万光年、つまり直径900兆キロメートルの我々の銀河系も、超巨大なスケールで見れば全体が1つの点として銀河の集団の中を動いている。そのスピードは秒速600キロメートルぐらいだそうだ。もうみんな泣きながら肩を組んでサライを歌っている。

僕が布団にくるまっている間も、僕を乗せた地球は猛スピードで宇宙を動いている。ちっぽけなひとつの歯車として確実に宇宙を成り立たせている。途方もない、気が遠くなる話だけれど、なぜだか僕はその事実に勇気づけられるのだ。閉めきった部屋でどうしようもなくうなだれている日も、僕は確実に昨日とは違う場所にいる。それは僕の精神の最も根底の部分を支えていると思う。気持ちの問題だけれど、気持ちが問題なのだ。

 

 

 

 

 

「フラット・アーサー」という人たちがいる。Flat Earther。「地球平面論者」と訳される。我々の住む地球は球体ではなく平面の円盤状で、その外周は高い氷の壁に覆われていて、そして宇宙などこの世に存在せず、現在の宇宙に関する全ての通説はNASAによる陰謀だ、と心の底から信じている人たちだ。あり得ないと思うかもしれないが、彼らは大まじめにそう考え、そう支持する「証拠」を精一杯集め、主にキリスト教圏で今も勢力を拡大しているらしい。*1

 

彼らの気持ちは、実はすごく分かる。もちろん科学的には山ほどケチをつけたいけれど、それでも、気持ちはとってもとっても分かる。

 

だって僕らはこんなにも生きているのだ。こんなにも、僕が生きていることは大事でたまらないのに、それなのに、実は地球は世界の中心なんかではなくて、銀河系の端にある太陽という何の変哲もない恒星のまわりを周っている惑星のひとつで、銀河には他に一千億の恒星があって、その銀河自体もまた一千億個あって、それなのに僕らはお隣の恒星まで行くことすらできない、時間的にも空間的にもちっぽけなゴミみたいな存在です、だなんてそんなのあまりに理不尽だ。神様がいるのなら、世界をこんな風に作ってしまうだなんて意地悪すぎる。神様は僕らを愛していない。

地球だけが世界の中心であってほしい。僕らだけが特別でありたい。僕らだけが神様から愛されていたい。布団の中で母親の愛を一身に受けて看病される時のあの心地よさで、世界の中心で一身に神様の愛を受けて生かされていたい。地球の年齢が45億歳だとか言っているのに、僕らはたったの100年しか生きられないのだ。それなら、愛されていないと嘆くよりも、つかの間の嘘を受け入れてでも愛されていると信じていたい。

その気持ちは、苦しいほど、よく分かるのだ。

 

 

 

 

それでも、やっぱり僕は、僕を乗せたこのまるい地球が秒速600キロメートルで宇宙を駆け抜けている姿を想像したい。それは決して自分の心を安寧にする妄想ではなく、たくさんの観測事実に基づいた途方もなく確かな現実である。だからこそ残酷で、だからこそ僕は勇気づけられるのだ。どんなに前に進めない時も、どんなに明日が揺らいで見えても、僕は確実にこの宇宙のダイナミクスを成り立たせているという事実が、僕の足を前に進めている。安全で穏やかな布団の中も良いけれど、神様に愛された世界も幸せだけれど、それでも僕は冒険に出たい。それでも、まるい地球を選びたいのだ。

 

 

 

 

 

 

ブログを書いていたらいつの間にか日曜日が終わっていた。やばい。明日からの服が無い。2週間ためこんでいた洗濯物を急いで洗う。『おまえ、せやからこまめに洗濯しろゆうたやろがい!』と言わんばかりに洗濯機が巨体をわなわな震わせている。ごめんなさい、ごめんなさい。ずぼらな性格でごめんなさい。

コインランドリーへ向けて自転車を漕ぎ出す。カゴの中の2週間分の生活の抜け殻は水を含んでさらに存在感を増し、僕の自転車をぐいぐいと前に引っ張っていく。少し不安定で怖いけれど、でも今ブレーキをかけてしまうのは、なんだかすごくもったいないような気がする。だから今は、できるだけしっかりとハンドルを握ろうと思う。車輪は、物理を尊重しながらすーっと転がっていく。僕が選んだゆるやかな球体の上を、すーっと転がっていく。

 

 

 

塩と涕と歳と汐

 

幼い頃、僕は泣き虫だった。

 

 

幼稚園の音読発表会で、本のページがうまくめくれなくて泣いた。担任の先生が慌てて飛んでくる光景と、母親が客席で赤面している光景は覚えているが、その後泣いている理由をどう先生に説明したのかは思い出せない。いや、さっさとめくれば済む話やがな、と先生は半ギレだったかもしれない。

 

兄の友人の家に一緒に遊びに行った時、部屋に掛けてあった鬼のお面を見て泣いた。それはもう大声で喚くぐらいガチな鬼だったのだ。それ以降、彼の家に僕が行くときには必ず前もって鬼のお面を外しておくというローカルルールが制定された。たまにルールを忘れて掛けたままにしていると僕がまたワーワー泣くので、彼も半ギレだったかもしれない。いやでも、小学生の部屋に鬼のお面は渋すぎると思う。仮面ライダーだろ、普通。

 

幼稚園にテレビの取材が来た時に、あとで録画を見たら全然映っていなくて泣いた。「カメラが来ても無理やり前に出ちゃダメですからね」という先生の忠告を僕は律儀に守っていたのだが、友人たちは全くお構いなしに前に割り込んでバッチリ映っていたのだった。みんなダチョウ倶楽部の見すぎだと思う。友人たちが満面の笑みでピースしている映像を母親が楽しそうに見ていて、僕だけが母親を喜ばせられていないという事実がたまらなく悲しかったのだった。

 

福岡ドームに野球を観に行った時に、井口選手のホームランボールが目の前に飛んできたのに捕れなくて泣いた。父親はちょうどそのタイミングでトイレに行っていて、戻ってきたら僕がギャン泣きしていたのだ。当時、ホームランボールを売ればきっと一生遊んで暮らせるぐらいのお金が手に入って、父親もこれ以上僕のために働かなくて済むはずだったのに、と本気で悔しかったのだった。なんちゃら鑑定団の見すぎだと思う。帰り道、父の漕ぐ自転車の後ろの席にまたがりながら、自分のせいで父に楽をさせてあげられないのが申し訳なくてまたしくしく泣いた。

 

 

 

 

 

 

いつからかそんな風に頻繁に泣くことはなくなったけれど、実はこのところまたよく泣くようになってきた。というか、何かを感じたらなるべく涙を流して積極的に感情を外に出すようにしている。

 

 

「ワンピース 感動」と検索してYouTubeを観ながら泣く。何度見てもチョッパー編で耐えきれずボロ泣きしてしまう。「コナン 感動」も検索してみたけどあまり良いのが見つからなかったので、ワンピースばっかり観ている。

 

『クレヨンしんちゃん 電撃!ブタのヒヅメ大作戦』を見て泣く。最後、ぶりぶりざえもんが助けにくるシーンで完全にやられた。ついでに『オトナ帝国の逆襲』と『アッパレ!戦国大合戦』も観て、これでもかと涙腺に追い打ちをかける。子供の頃にはあまり感動しなかったシーンで感動し、自分の成長を感じることでさらに泣くというフィードバックループを見事構築する。

 

コインランドリーに行く途中でついファミチキを買ってしまい、乾燥機に入れる100円玉が足りず生乾きで持って帰る羽目になり、あまりの自分の不甲斐なさにイライラがピークに達して泣く。

 

家に帰ってきてパスタサラダを机に置いたときに、思いのほかガタっと大きな音を立てて変な動きで机に着地したのを見て泣く。真顔でパスタサラダを食べる。

 

カネコアヤノを聴いて泣く。

騒がしい路地の隙間から

西日が射すだけ泣きそうで

全てのことに理由がほしい *1

そうだなあ、そうだそうだ。泣く。

 

自分の2年前の日記を見て泣く。博士課程に進学すると決めた時、祖父と話したことが書いてあった。

色々話した。経営を37年間続けたこと、専門ではなかったので多大な苦労をしたこと、その苦労は誰にもやらせたくないこと、自分の仕事は自分のためだと懸命にやったこと、やりたいことは何でもやってきたこと、今年で80歳になるが未だに韓国語を勉強していること、毎日書いている英語日記はもう20年になること、まだまだ僕は若いということ、その若いうちになんでもやりなさい、知識は荷物にならない。

祖父はまるで遺言でも語るかのようで、僕は、その光景を一つも忘れたくはなくて、こんな時に涙の一つでも流せたらいいのにと強く、強く思ったのだった。その時、涙は流せなかった。

 

顔の肌荒れが治らなくて泣いているYouTuberを見て泣く。深刻そうな顔のサムネイルにつられて思わず動画を開いて、気付いたら全部見てしまった。モデルをしている人らしい。*2

「すごい申し訳なくて」「モデルも続けたくないし」「美容系って言ってるのに全然みんなに綺麗なメイク教えてあげられなくて」「こんなに頑張ってスキンケアしてるのに」「やばくないですか普通に」「盛れてなさすぎて」「ほんとに苦痛すぎて」「無理なんだけど」「生きていくのがめちゃくちゃ辛いです」「何撮ってんだろほんとに」「みんなの前で笑ってるけどほんとに泣きたくて」「家から出たくないんですよ、もうほんとに」

僕にはきっと共感しきれないけれど、でも彼女にとって極めて切実で、世界を揺るがす大事件で、声を荒げて、必死で、そういう偏った強い願望を持つことが今を懸命に生きることだと思う。泣く。

 

カネコアヤノを聴いてまた泣く。

たくさん抱えていたい

次の夏には好きな人連れて

月までバカンスしたい

隙間からこぼれ落ちないようにするのは苦しいね *3

しっかりとした気持ちでいたい

自ら選んだ人と友達になって

穏やかじゃなくていい毎日は

屋根の色は自分で決める *4

共感しきれないけれど、彼女にとってきっと切実で、偏った願望はやっぱり美しい。泣く。

 

牡丹茶房『廃優』を観劇して、あまりの恐怖と迫力に号泣する。一緒に観に来た友人2人にドン引きされる。スナッフフィルムを扱った話だった。とても良い芝居だったけれど、単純にこわいのが苦手なので途中から全身が硬直してしまった。こわいのこわい。いたいのいたい。

僕がホラー、特にスプラッターが苦手なのは、肉体の脆さを極端にあからさまな形で見せられるからだと思う。人間が時にあまりにも無力なことくらい知っているから、あえて声高に宣言されるのはあまりにもつらい。

観劇後泊まった友人の家で見た朝焼けの、ちょうど青とオレンジの境目の一番色が淡くなっている箇所を指し示すように細い影が一本走っていて、それはスカイツリーだった。電車に乗る頃には空はやけに不健康そうに青白くなり果てていて、ああ、もう、どうして、続かないものは、続かなくなるだけでなく、いつも、壊れてしまうのだろう。人間の肉体も、景色も、そうだ。

 

自分の2年前の日記を見てまた泣く。

あの人のことがとても好きだ。それは身体と混然一体であり、自分でも区別できないけれど、ただ今この瞬間にあの人の髪に触れたい、肌に触れたい、そう思う。それは純粋だろうか。純粋でなきゃいけないだろうか。

夜明けを待たず、踊ろう、生きているこの瞬間を。

続かないものは、続かなくなるだけでなく、いつも、壊れてしまう。人間関係もそうだ。

 

友人の結婚式の花嫁が最高に美しくてびっくりして泣く。が、親族も泣いていないのに僕が泣いちゃいかんだろ、とさすがに冷静になり頑張ってこらえる。バージンロードを歩く姿は、ほんとうに妖精みたいで、ふんわりとした白いベールは今にも溶けだしそうなぐらいやさしく光を散乱させていた。食感にたとえるなら、きっとアンパンマングミのオブラートのような優しさだ。食感にたとえるのは今後やめよう。

キリスト教一家である友人の結婚式は、本格的な儀式として執り行われ、周りのたくさんの教会関係者は、聖書の言葉に小さくうなずいたり、目を閉じて静かに祈りを捧げたりと、神々しい一体感でもって新郎新婦を見守っていた。

壊れてしまうことを知っているから、抗うように、懸命に、繋ぎとめる必要があるのだと思う。それが結婚の意味なのかもしれない。それが、祈りの意味なのかもしれない。きっと、信仰というのも、切実で、偏った願望のひとつだ。僕にはやっぱり共感しきれないけれど。

 

 

 

歳を取ると涙もろくなると言うので、いよいよ僕もおじさんになってきているのか……、と覚悟していたが、柴田理恵さんが最近泣いたのは「犬が走っているところを見た時」だと聞いて安心した。うん、やっぱり本物は違う。まだまだ僕は若い。

 

うん、そうだ、まだまだ僕は若い。だから、若いうちに何でもやろう。前に進もう。知識は荷物にならない。そうだよね。

 

 

*1:カネコアヤノ『アーケード』https://youtu.be/AjU1BLFmOMM?list=TLPQMDIxMjIwMTkTIyOZGay3sw

*2:https://youtu.be/UyfUos2-Szg

*3:カネコアヤノ『光の方へ』https://youtu.be/cE7-jDEKtE4

*4:カネコアヤノ『燦々』https://youtu.be/EXsnSC-fzMk?t=61

世界、穴だらけ

 

救急車を初めて見た時のことをよく覚えている。

 

そのとき僕は父の運転する車の後部座席に乗っていた。サイレンの音が遠くから近づいてくると、その音波の振幅に比例して交差点に緊張感が高まり始めた。緊張感は空気を揺らがせる。その揺らぎが歩行者たちの足並みを揺らがせる。揺らぎはガラス越しに僕らの車内にも届いて、揺らがされた父は手際よくその音源の方向を特定して車を脇に寄せる。炎天下で汗を拭うサラリーマンも、肘まである手袋とサンバイザーでキメたおばちゃんも、イカツイ顔面を貼りつけた対向のミニバンも、それぞれが揺らぎの中の適切なポジションを察知して配置につく。

 

やがて、揺らいだ空気の真ん中を救急車がビューンと突き抜けた。

 

その瞬間を、日常に突如差し込まれた祈りのようなその瞬間を、しっかりと覚えている。

名も知らぬ人間たちが、名も知らぬ人間の命のために揃って歩みを止めるその光景は、まだ幼い僕の心に鮮烈に刺さったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなツイートが流れてきた。

 

 

ドーナツの穴。ドーナツ本体という実体が生まれた結果、ついでに生まれてしまった穴。生まれたと言っても実体を持っているわけではなく、でも確かに存在感を持ってそこにある。そこにあるんだけど何も無くて、それなのに「やっぱ穴がなきゃドーナツじゃないっしょ!」と、なぜかドーナツのアイデンティティを一身に背負わされてしまっている不思議な奴。それがドーナツの穴。

 

 

先ほどのツイートの彼女はブログの中で、そんなドーナツの穴という微妙な存在は、「確実性が高い『ドーナツ生地』がないと存在が明らかにされないのか」という疑問を投げかけ、さらにそのドーナツの穴を人間の心の揺らぎや葛藤になぞらえ、こう問いかけてくる。

 

揺らぎとか葛藤は、明確な言葉や行動などのアウトプットでしか存在が認識できないのか。その微妙な存在を、微妙なまま感じ合うことはできないのか。*1

 

声を張り上げながら募金活動する小学生たちの横を素通りする時、

泣きながら駅の柱にもたれかかっている女性の横を素通りする時、

前を歩く人の鞄から落ちたペットボトルごみの横を素通りする時、

シャツを汚しながら嘔吐している男子大学生の横を素通りする時、

僕の心の揺らぎは、葛藤は、確かに存在している。

 

本当は、世界はドーナツの穴だらけなのかもしれない。たとえ今ドーナツ本体がそこに無かったとしても、この何もない空間すべてがドーナツの穴になれる可能性を秘めていて、そんな、手に取ることはできない可能性としてのドーナツの穴を、可能性としての心の揺らぎを、葛藤を、可能性のまま感じることができたら。そんなのは甘っちょろい考え方だと嘲笑う自分の左側の脳みそを、それでも受け入れて信じることができたら。

 

世界は変わるんだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨。

 

雨。

 

高円寺を行く僕のスニーカーは地面のなるべくすれすれを這う。

好きな歌人のイベントに行った。財布を忘れて何も買えなかったけれど。

 

「あの人はね、裏ではあんなこと言ってるんすよ。結局ああいう人間なんすよ。」

 

こそあどの『あ』だけで描写された『あ』の人の失われた可能性のことを思う。

『こ』んな思い、『そ』んな行動、『ど』れが本物で、『ど』れが嘘なんだろう。

 

「中央線には現在10分ほどの遅れが出ております」

 

「出ております」

 

「明日小テストとかマジ死んだ方がいいわー」

 

「そう、ごめん、今ちょっと電車遅れてるみたい」

 

「これ、タッチしても反応しないんだけど」

 

「危ないですので離れてくださーい」

 

「うん、また水曜日ねー」

 

「別に怒ってないけど」

 

「危ないですので、離れてくださーい!」

 

「そう、トリキのキャベツで3時間粘ったからね」

 

「耳が不自由です はっきり口元を見せて話して下さい」

 

「中央線には現在10分ほどの遅れが出ております」

 

「出ております!」

 

「出ておりますよっ!」

 

あの日、サイレンが遠く走り去ると、揺らいだ交差点の空気はのっぺりと元の形状を取り戻していった。サラリーマンはサラリーマンの顔をして、おばちゃんはおばちゃんの顔をしてまた歩き始めた。僕がたしかにこの目で見たはずのあの美しい空気の揺らぎは、あっという間に均質化されて見えなくなってしまった。

救急車を妨害しないのは、交通違反になってしまうからである!

走行妨害と患者の死亡との因果関係が認められれば、刑事責任を問われるのである!

そうである!

そうであるけれど。

 

「あの、勘違いかもしれないんですけど」

 

「スクープ!IT実業家との濃厚密会8時間!」

 

「草」

 

「前見ろや死ね」

 

「離れてくださーーい!」

 

「落とすよ」

 

「落としましたよ」

 

「落ちろ」

 

「ラーメン!つけ麺!僕!」

 

「就活浪人」

 

「大丈夫ですか?」

 

「ありがとね」

 

「あたま、大丈夫ですか?」

 

大丈夫、

 

「今、駅着いたよ」

 

「泊まってく、今日?」

 

「飲み足りないから持ってんの~!はい!」

 

「せっかくなんやから、すごい人になってや」

 

「そーれはいわゆるそーそお!S!O!S!O!」

 

そう、

 

「危ないですので離れてくださーい」

 

「全然怒ってへんよ」

 

「トリキのキャベツ」

 

「離れてくださーい」

 

「そんなに悪い人ばっかりじゃないと思うけどな」

 

「ご協力ありがとうございまーす」

 

そう、世界は、

 

「全国的ににわか雨や満月を伴う快晴の気分でよろしいでしょうか」

 

「じゃあね」

 

「よろしいかと思われます」

 

「バイバイ」

 

「問題です」

 

「貝は貝でも抱きしめたくなる貝なーんだ」

 

名も知らぬ人間たちが、名も知らぬ人間の命のために揃って歩みを止める、あの、

 

「正解は」

 

「世界」

 

あの、瞬間を、

 

「甘っちょろくても、信じていたいなあ」

 

世界は、きっと、穴だらけ。