ハルに風邪ひいた

駆け出し宇宙工学者が気が向いたときに書く方のブログ

リヴリーは死んだ。僕は生きている。

 

小学四年生の僕は、大人のイケない世界に足を踏み入れようとしていた。オンラインゲームを始めたのである。

『リヴリーアイランド』というそのゲームは、当時ゲームボーイアドバンスに大脳皮質の全てを支配されていた僕にとってはあまりに革新的だった。ゲームの内容自体は、たまごっちのように架空の生き物を育成するというだけなのだが、革新的だったのはオンラインチャット機能である。夜、ゲームをしながら離れた場所にいる友達とコソコソおしゃべりをするというその行為は、小学校で流行っていた他のどの遊びよりも背徳的で甘美な匂いをプンプン漂わせていた。林間学校の消灯後の「いっせーのーせで好きな女子の名前言おうぜ!」的なあのドキドキワクワクを、リヴリーアイランドは毎日僕に届けてくれるのだった。

そんなリヴリーアイランドで、僕には一人だけオンライン友達がいた。『瑠璃色ユアン』という名前のその人とは、好きなRPGゲームの話で意気投合し、友達になったのだ。僕、改めユーザーネーム『くぼゆう』はユアンさんに惹かれていた。名前も顔も知らないどこかの誰かと、名前も顔も明かさずにおしゃべりをするその背徳感。さながら仮面舞踏会にでも参加しているかのような気分に、くぼゆうはすっかり酔いしれていた。実際にチャットをした回数こそ少なかったけれど、そして名前も顔も知らなかったけれど、名前も顔も知らなかったからこそ、ユアンさんはどこまでも謎めいていて魅力的に見えたのだった。

 

 

 

『なぜ私たちは斎藤工に色気を感じてしまうのか』

俳優・斎藤工の色気について、哲学研究者の永井玲衣さんの分析が面白い。*1

 

彼の挙動はしとやかである。まるで彼のまわりだけ時間が止まってしまったみたいだ。そして、ミステリアスなまなざしをこちらに向けている。それだけで、わたしたちは斎藤工について想像を駆り立てられてしまう。

(中略)

しかし、わたしたちはそれを知ることはできない。彼の深奥を探究したいけれど、かなわない。

(中略)

大事なのは、その知の獲得に駆り立てられること、そしてその獲得が本質的に不可能であることである。

 

小学四年生のくぼゆうがユアンさんに感じていたのはまさしくこの色気だったのだろう。パソコンの画面越しの彼との会話は、熱っぽいくせにやけに温度感が失われていて、繋がっているはずなのに謎めいていて、それはそれまで生きてきた十年間で初めて味わうタイプの興奮だったのだ。くぼゆうは十歳にして色気とは何たるかを身をもって実感してしまった。なんともオマセさんなくぼゆうである。

 

 

 

 

昨年末からの数ヶ月、冬の夜空で尋常じゃない色気を放っていた星が一つある。ベテルギウスという星だ。冬の大三角にも属するこの代表的な一等星が、11月頃から急激にその明るさを失っていっていることが天文学界で話題になっていたのだ。何しろこの急激な減光は、ベテルギウスが死を迎えて最期の大爆発を起こす予兆かもしれないというので大騒ぎだったのである。これほど明るい星がもし大爆発すれば、人類史上でも稀に見る一大天文ショーになる。明日には爆発するんじゃないか、今この瞬間にも爆発するんじゃないか、と僕らの心を駆り立てるだけ駆り立てておいて、ベテルギウスはただ静かに哀愁たっぷりに、どんどん暗くなっていった。

 

ベテルギウスの色気は、斎藤工どころの騒ぎではない。斎藤工なら死ぬ気でネトストすればなんとか生きているうちに会うことぐらいはできるかもしれないし、もし運が良ければそのミステリアスな私生活の一部をこっそり覗き見できるかもしれない。近所のドラッグストアで鼻セレブなんかを買っているところを目撃できちゃうかもしれない。しかしベテルギウスには圧倒的に手が届かない。距離にして6000兆キロメートル。1秒で地球を7.5周するという光の速さで飛んで行っても640年もかかる。かたや人間の乗れる宇宙船は数十分かけてようやく地球を一周する程度のスピード感だ。宇宙船に乗って僕らがベテルギウスに直接会いに行くことなんて全くもって不可能なのである。

というか光が届くのに640年かかるということは、そもそも今僕らが見ているベテルギウスは今現在のベテルギウスではなく、640年前のベテルギウスである。たとえ今爆発していないように見えたとしても、それは640年前のベテルギウスが爆発していないというだけで、彼が今この瞬間に生きている保証は全くない。物理的に手が届かないどころか、今現在生きているか死んでいるかすらも知り得ることのできないという、最高のミステリアス。そして逆に今僕がこうして生きている映像がベテルギウスまで届くのは640年後で、どれだけ長生きしてもそのとき僕はこの世にはいない。なんという決定的なすれ違いだろう。ベテルギウスの色気は斎藤工よりも壇蜜よりも綾野剛よりも凄まじいけれど、彼と僕が同じ瞬間を共有することは決して、決して許されない。

 

 

 

 

ある日、くぼゆうのリヴリーアカウントにログイン不可能になるという事件が起こり、アカウントを新たに作り直さねばならなくなった。くぼゆうは焦った。くぼゆうの頭に真っ先に浮かんでいたのはユアンさんである。他の友達なら小学校で直接聞けばいいが、彼とはオンラインでしか友達でないので、覚えている情報だけを頼りに探すしかない。くぼゆうはユアンさんを探した。記憶を辿りに辿ってようやくユアンさんを発見し、興奮気味にユアンさんに話しかけた。

 

「おひさしぶりです!前のアカウントで『くぼゆう』っていう名前だった者です!」

 

「は、誰だよ」

 

「覚えていないですか?××っていうゲームのお話ししたくぼゆうです!アカウント変えたんです!」

 

「誰だよ、殺すぞ」

 

誰だよ、殺すぞ、それが彼の放った言葉だった。ユアンさんはそれからくぼゆうのことを激しく攻撃しはじめた。くぼゆうの掲示板に罵詈雑言を書き込み、くぼゆうがその書き込みを消すと、消したことをまたさらに攻撃的な言葉で批判してきた。どうしようもなくなったくぼゆうは、兄になりすました。「弟も反省しているので……」と一人二役で掲示板に謝罪の書き込みをした。それでも彼は聞く耳を持ってくれなかった。彼の友人と思われる人までもがくぼゆうへの攻撃に加担しはじめた。生まれて初めて体験するネットトラブルだった。しばらくしてこのトラブルは隣のクラスの先生の耳に入り、僕は職員室の小部屋に呼び出されて、泣きながら一部始終を話した。それから放課後、家に担任の先生が来て母親に事情を説明した。僕はその日からリヴリーアイランドを禁止された。

悲しかったというよりも、呆然としていたと思う。僕にとってのユアンさんは唯一無二でかけがえのない友達だったけれど、ユアンさんにとっての僕は名前のないネット住人の一人でしかなかった。少しチャットをしただけで友達になったと思っていたのは僕だけだった。僕の心を駆り立てるだけ駆り立てておいて、僕の知っているユアンさんはどこかに行ってしまった。魅力的で意地らしい、ひんやりとした色気の残り香だけを漂わせて。鼻腔に残る微かなにおいを嗅ぎながら、僕はぼーっとしていた。僕が見ていたユアンさんは本物だったのだろうか。好きなゲームの話で意気投合したあの時間は全部、僕の勘違いだったのだろうか。勘違いならいい。そうであってほしい。もしそうでないならば、色気というのはあまりに残酷だ。

 

 

 

光の速さは有限なので、とっても厳密なことを言うと僕の目に飛び込んでくるあらゆる映像は過去のものだ。僕の目に映る1メートル離れたあなたは3億分の1秒前のあなただし、たとえどれだけあなたに歩み寄ったって、1センチメートル先に佇むその瞳は300億分の1秒前の瞳だ。視覚の上では、僕らは「今この瞬間」を決して誰とも分かち合うことはできない。視覚の上では、僕らは決定的に孤独だ。

中島らもさんも同じことに言及し、彼の著書の中で一つの解決策を示していた。*2

 

人間の実相は刻々と変わっていく。無限分の一秒前よりも無限分の一秒後には、無限分の一だけ愛情が冷めているかもしれない。だから肝心なのは、想う相手をいつでも腕の中に抱きしめていることだ。ぴたりと寄りそって、完全に同じ瞬間を一緒に生きていくことだ。

 

決して埋めることのできない時間のずれを乗り越えるには、できる限り近くで相手の存在を受け入れていくしかない。その息遣いを、その声色を、温度感を、肌の手触りを、髪の匂いを、手の握り具合を、なるべく絶え間なく受け入れていくしかない。そこには、色気は存在しない。人間という生身の動物は、ツヤっとした画面越しのミステリアスな存在とは違って、きちんとリアルだ。きちんと汗の匂いはするし、きちんと顔にはシミもある。どうでもいい話を振ってくることもあれば、感情を露わにしてくることもある。生身の人間と対峙することは面倒くさくて恐ろしい。

色んなことがそうだ。旅行雑誌で見る『特集!神々の島・バリ島』みたいな記事にはこの世のものとは思えぬ神秘的な世界が広がっているけれど、実際に行ってみるときちんと蒸し暑いし、きちんと蚊やハエは多いし、車からはきちんと排気ガスが出ていて、雨はきちんとうっとうしい。テレビ番組『鶴瓶の家族に乾杯』ではやたら幸せそうな素敵な家族の姿が映されているけれど、きっとその家族もソファでいびきをかいて寝ているお父さんを邪魔だなと思うし、やたらとお風呂の長い姉に対してイライラもするし、ポチが散歩中にしたフンを処理するのはダルい。隣の芝はいつも色気たっぷりで、うちの芝はいつもきちんと芝だ。

けれど僕は、その面倒くささを愛したい。だって僕は本質的に孤独で、色気はあまりに残酷だから。面倒くさくて、生き物くさくて、時に恐ろしいものと正面から向き合うことでしか得られない何かを大切にしたい。それは、何かだ。色気たっぷりでミステリアスなベテルギウスとは決して共有することのできない何かだ。15年前にくぼゆうがユアンさんと決して分かち合うことのできなかった何かだ。甘美な香りのする色気もいいけれど、やっぱり僕は人と向き合いたい。面倒くさいことに巻き込まれたい。生き物のにおいに踊らされたい。「もう、父さんそこで寝ないでよ!」とか言ったり、「なんでいつも分かってくれないの!?」とか言われたりしながら、生きていたい。

 

 

 

 

 

 

驚きのニュースを目にした。

 

「ペット育成ゲーム『リヴリーアイランド』、16年の歴史に幕」

 

なんと3ヶ月前ぐらいにリヴリーアイランドはサービスを終了していたらしい。この記事を書いている途中で何気なく調べてみて初めて知って驚いた。3ヶ月前というとちょうど、ベテルギウスの減光で大騒ぎになっていた頃だ。んんん、なんというタイミング。検索画面をスクロールしていくと、サービス終了の知らせを聞いた長年の古参ユーザーたちのブログ記事が出てきた。そこには、自分の愛したリヴリーとの最期を思い思いの形で迎える様子が描かれていた。僕は口をちょっとだけとんがらせながら、彼らの思いの丈をさらさら読み流していく。

あれ、そういえば、『くぼゆう』のアカウントはあれから15年間どうなっていたのだろうか。たしかあの時パソコンを買い替えたか何かのせいで、パスワードの再設定ができなくなってアカウントにログインできなくなってしまったのだった。だとするとそのアカウント自体は15年間ずーっと生きていたことになる。この15年間、僕が小学校、中学校、高校、大学と歳を重ねている間、くぼゆうはずーっとずーっと冬眠状態ながらも生き続けていたのだ。生き続けていて、そして3か月前のある日突然死んだ。リヴリーの世界ごと、みんな死んだ。ユアンさんも、攻撃的な掲示板の書き込みも、何もかも死んだ。

 

今日も夜空にはベテルギウスが輝いている。オリオン座の右肩に位置する赤い星。そこから左の方へ冬の大三角がいつものように伸びている。のちの調査で分かったのだが、結局あの減光は爆発の予兆ではなく、ちょっとした気まぐれでいつもより明るさが落ちてしまっていただけのようだ。

「え、別に全然死ぬとかではないですけど?少し落ち込んでいただけですのでどうぞお構いなく」

と相変わらずの塩対応で輝くベテルギウス。おいコラ、心配したこちらがバカみたいじゃないか。

色気なんかに構わず生きてやる。意地でもお前より長生きしてやる。お前より儚くて、お前より面倒くさくて、色気の欠片もないたくさんのことと正面から向き合いながら、生きてやる。

 

*1:永井玲衣 なぜ私たちは斎藤工に色気を感じてしまうのか/色気を哲学する AM

*2:中島らも『サヨナラにサヨナラ』, 愛をひっかけるための釘 (集英社文庫) より