ハルに風邪ひいた

駆け出し宇宙工学者が気が向いたときに書く方のブログ

それでも、まるい地球を選びたい

 

今年の正月休みは、実家の布団でフルタイムを過ごすはめになった。インフル・ザ・フィーバーである。

年末にかけての追い込みの半徹夜が響いたのだろう、帰省初日から順調に体調は悪化していき、いよいよ大晦日の朝にピーク。40度の熱、ほぼ幻覚のような夢、最悪の目覚めだ。助教の先生が黒い紐のようなものを寄せ集めて球体にして、『これがプロジェクトチームの総意である!』という謎の声明を発表するという恐ろしい幻覚だった。しかも何度寝直しても全く同じ幻覚が再生されるのだ。恐怖だ。かれこれ数十回連続で見た。さすがに40度熱が出ると人の脳みそはバグる。発症がもう1日遅かったら、危うくその幻覚が初夢になるところだった。それはそれで安部公房みたいな世界観の1年になって楽しかったのかもしれないけれど。

 

 

驚いたことに、母親がおそろしく優しい。昔は体調を崩そうもんなら、『てめえ、このクソ忙しいのによくも風邪なんか引いてくれたな!』と、極道の二文字をチラつかさせる勢いだったのが、今となっては『あんたも、せっかく帰って来たのに大変やったねえ。』などと優しく洩らすのである。チラつかせるのは聖母の二文字だ。

僕もいよいよひとり暮らしが長くなってきたので、こうやって手厚く看病してもらえると、もうこの上なく極楽で仕方ない。寝て、起きたらお粥が出てきて、また寝て、起きたらうどんが出てきて、おまけにハーゲンダッツまで出てくる。ああ、なんて僕は親不孝な息子なんだ……という背徳感すら、もはや心地よい。ああ、世界は僕を中心に回っている。ああ、僕は世界に愛されている。安全で、穏やかで、できるならずっとこうやってぬくぬくしていたい……。

 

 

ただ、これほどこの上なく幸せなのにどうしても1日中布団にこもっていると強烈な焦りを感じてしまう。僕はこうやって布団にうずもれたままどこまでも腑抜けて、堕落して、一生何にもなれず、どこにも行けず、世界と正常に関われないかもしれない、という焦りだ。普段の土日でこういう日があっても、どうせすぐ月曜日がやってくるので結局腑抜けることは(でき)ないのだが、インフルともなると強制的に寝床に縛られるので、この焦りは着実に、そして急激に膨らんでくる。

『お前は親不孝で、腑抜けで、世界中から見放されたダメ人間だ!そう、それがプロジェクトチームの総意である!』

数日前までバグっていた脳みそがすっかり真人間の顔をして声明を述べている。

ごめんなさい、ごめんなさい。役に立たなくてごめんなさい。

 

 

 

 

 

 

そんな時、僕は太陽系の動きのことを思う。

「僕らは地球に寝転がっているだけで秒速500メートルという猛スピードで動いているのです」とよく言われる。地球が自転しているからだ。秒速500メートル。100メートル走を0.2秒で走るスピードだ。ウサイン・ボルトが泣いてしまう。

ただ、それだけではない。僕らはさらに秒速30キロメートルで動いている。地球が太陽の周りを公転しているからだ。30メートルではない。30キロメートルだ、1秒で。箱根駅伝を2日間あわせても7秒で走り切るスピードだ。青山学院が泣いてしまう。

それだけではない。銀河の巨大なスケールで見ると、我々の太陽系全体も1つの点として銀河内をぐるぐる周っている。そのスピードは秒速240キロメートル。太陽も、水星も、木星も、ハレー彗星も、小惑星リュウグウも、そして僕らも、全て一緒になって秒速240キロメートルで銀河の中心に対して周っている。日本列島を10秒で縦断するスピードだ。JRさんが泣いてしまう。JALANAも当然泣く。

まだだ。直径10万光年、つまり直径900兆キロメートルの我々の銀河系も、超巨大なスケールで見れば全体が1つの点として銀河の集団の中を動いている。そのスピードは秒速600キロメートルぐらいだそうだ。もうみんな泣きながら肩を組んでサライを歌っている。

僕が布団にくるまっている間も、僕を乗せた地球は猛スピードで宇宙を動いている。ちっぽけなひとつの歯車として確実に宇宙を成り立たせている。途方もない、気が遠くなる話だけれど、なぜだか僕はその事実に勇気づけられるのだ。閉めきった部屋でどうしようもなくうなだれている日も、僕は確実に昨日とは違う場所にいる。それは僕の精神の最も根底の部分を支えていると思う。気持ちの問題だけれど、気持ちが問題なのだ。

 

 

 

 

 

「フラット・アーサー」という人たちがいる。Flat Earther。「地球平面論者」と訳される。我々の住む地球は球体ではなく平面の円盤状で、その外周は高い氷の壁に覆われていて、そして宇宙などこの世に存在せず、現在の宇宙に関する全ての通説はNASAによる陰謀だ、と心の底から信じている人たちだ。あり得ないと思うかもしれないが、彼らは大まじめにそう考え、そう支持する「証拠」を精一杯集め、主にキリスト教圏で今も勢力を拡大しているらしい。*1

 

彼らの気持ちは、実はすごく分かる。もちろん科学的には山ほどケチをつけたいけれど、それでも、気持ちはとってもとっても分かる。

 

だって僕らはこんなにも生きているのだ。こんなにも、僕が生きていることは大事でたまらないのに、それなのに、実は地球は世界の中心なんかではなくて、銀河系の端にある太陽という何の変哲もない恒星のまわりを周っている惑星のひとつで、銀河には他に一千億の恒星があって、その銀河自体もまた一千億個あって、それなのに僕らはお隣の恒星まで行くことすらできない、時間的にも空間的にもちっぽけなゴミみたいな存在です、だなんてそんなのあまりに理不尽だ。神様がいるのなら、世界をこんな風に作ってしまうだなんて意地悪すぎる。神様は僕らを愛していない。

地球だけが世界の中心であってほしい。僕らだけが特別でありたい。僕らだけが神様から愛されていたい。布団の中で母親の愛を一身に受けて看病される時のあの心地よさで、世界の中心で一身に神様の愛を受けて生かされていたい。地球の年齢が45億歳だとか言っているのに、僕らはたったの100年しか生きられないのだ。それなら、愛されていないと嘆くよりも、つかの間の嘘を受け入れてでも愛されていると信じていたい。

その気持ちは、苦しいほど、よく分かるのだ。

 

 

 

 

それでも、やっぱり僕は、僕を乗せたこのまるい地球が秒速600キロメートルで宇宙を駆け抜けている姿を想像したい。それは決して自分の心を安寧にする妄想ではなく、たくさんの観測事実に基づいた途方もなく確かな現実である。だからこそ残酷で、だからこそ僕は勇気づけられるのだ。どんなに前に進めない時も、どんなに明日が揺らいで見えても、僕は確実にこの宇宙のダイナミクスを成り立たせているという事実が、僕の足を前に進めている。安全で穏やかな布団の中も良いけれど、神様に愛された世界も幸せだけれど、それでも僕は冒険に出たい。それでも、まるい地球を選びたいのだ。

 

 

 

 

 

 

ブログを書いていたらいつの間にか日曜日が終わっていた。やばい。明日からの服が無い。2週間ためこんでいた洗濯物を急いで洗う。『おまえ、せやからこまめに洗濯しろゆうたやろがい!』と言わんばかりに洗濯機が巨体をわなわな震わせている。ごめんなさい、ごめんなさい。ずぼらな性格でごめんなさい。

コインランドリーへ向けて自転車を漕ぎ出す。カゴの中の2週間分の生活の抜け殻は水を含んでさらに存在感を増し、僕の自転車をぐいぐいと前に引っ張っていく。少し不安定で怖いけれど、でも今ブレーキをかけてしまうのは、なんだかすごくもったいないような気がする。だから今は、できるだけしっかりとハンドルを握ろうと思う。車輪は、物理を尊重しながらすーっと転がっていく。僕が選んだゆるやかな球体の上を、すーっと転がっていく。