ハルに風邪ひいた

駆け出し宇宙工学者が気が向いたときに書く方のブログ

灰、そのきめ細やかさ

 

うたた寝から醒めると、世界はうらがえっていた。

 

そう、その日は生まれて初めて線香を人から頂いたのだった、ので、ライターを買いに行くことにした。ファミリーマートにした。多分電池とかが売っているコーナーとか、普段の買い物では立ち寄らない場所に置いてあるのだろうと思って探してみるけれど、無い、あれ、ファミリーマートはライターを売らないのか、と思って帰ろうとしたら、レジのところにめちゃくちゃたくさん置いてあった。毎日見ているレジなのに、毎日律儀に見逃していたらしい。生まれて初めて、ライターを買う。

 

筆箱に入っていた消しゴムをはさみで半分切って、真ん中にぐりぐり細い穴をあけて線香を立ててみた。灰は、ごみ箱に捨ててあったマウントレーニアの蓋でとりあえず受けてみる。先端をライターで炙ると、こころもとなく、それは始まった。よく目視できないけれど、どうやら灯ったらしい。寝起きの背伸びをするように、そうして血流がからだを一斉に巡るように、灯りが芯全体に広がっていく。

 

たとえば、もう二度と会うこともできないのだろうと思っていた人が突然目の前に戻ってきた日、僕はとっても嬉しくて、なのにとっても悲しくて、少しだけ憎らしかった。それだけあの二年間は寂しくて、切実で、いじけることしかできていなかったのだろう。だから、彼女と二年ぶりに言葉を交わしたその日も、世界がうらがえったような感じがしたのだった。

 

マウントレーニアの蓋には、ストローを挿すための穴がある。その穴に灰が落ちるといけないので穴とは反対側の方に消しゴムを寄せていたら、今度は落ちた灰が蓋からはみ出してしまった。寄せすぎた。机の上にこぼれた灰を拾おうと指に押し当ててみると、それは、これまでの人生で触ってきたものの中で断トツできめ細やかな手触りだった。なんだこれは。触った感覚がぜんぜん無い。なのに指にあり得んへばりついている。蓋に落とそうと指を擦ってみても、粒子の塊が際限なく分裂してまとわりついてきて、指先がシャカシャカにコーティングされてしまう。細長いドッグフードぐらいの手触りを期待してたのに。崩れきった粒子のひとつひとつは粒と認識できないほど細かかった。

 

たとえば、線香を人生とするならば、灰は過ぎ去った日々だ。それは、大雑把に認識すれば一つの塊のようであって、触れてみればこんなにもきめ細やかな体験で出来上がっている。そういえば、過去の解像度を上げるという話を昼間に聞いた。何を言っているのかあんまり分からなかったけれど、灰のことを言っていたのかもしれない。

 

世界がうらがえったあの日、彼女とは過ぎた日々のことを話した。彼女の口から、幸せではなかった日々のことを、初めて聞いた。僕は、過去の意味は自分で与え直せるものだ、というようなことを彼女に言った。それは本心で、心から納得してそう言ったんだけれど、だから嘘ではないけれど、そんなこと、偉そうに言ってしまう自分のことが今になって嫌になったりする。そんなの、彼女にまた好かれたいと思って口走っているだけなんじゃないのか。自分でもそんなかっこいい生き方、ロクにできていないくせに。だって過去は、こんなにもきめ細やかなのだ。触れればこんなにも執拗にへばりついてくるものだ。いくら擦り落としたって、それでもまとわりついてくる、リアルな体験だ。そのリアルを、理性を以て大雑把にまとめて処理してしまえ、と言ってしまうことはどれほど無責任なことだろう。言ってしまえたことは、どれほど短絡的だっただろう。

 

部屋の蛍光灯を消してみると、こころもとなかった線香の灯りが煌々と輝いて見えた。夜の方が生きている実感がするのは、そのせいなんだと思う。そうしてまた蛍光灯を点け直すと、今度は煙のゆらめきがはっきりと見えるようになった。線香の煙も、気体のように見えて実は細かい固体の粒子なんだと思う。光が当たると、その細かい粒子によってミー散乱されて、散乱光が目に届くから見えるのだと思う。だから、線香の匂いは何か目に見えないオーラみたいなものを感じているのではなくて、鼻の中に入ってきた固体粒子が嗅神経と反応しているのだと思う。現実だと思う。だから、線香が燃えるとき、人生が過ぎるときに失われていくものは、決してオーラみたいな曖昧なものではなくて、質量を持った実体なんだと思う。五本目の線香が、ちょうど燃え終わる。時間が過ぎて失われていく実体が、確かにある。そういう焦りがある。だから、今度会う時は、できるだけゆっくりと話を聞きたい。短絡的にまとめようとせず、時間をかけて向き合いたい。僕も、色んなことを話したいと思う。

 

陽が昇ろうとしている。始発の電車が発車しようとしている。線香を挿していた消しゴムの穴の縁が、焦げて黒くなっている。消しゴムが燃えて出た変な煙も、少し吸ってしまったかもしれない。あの日世界がうらがえって、また今日もうらがえったなら、きっと世界は元通りなのだろう。マウントレーニアの蓋は灰まみれになっていて、ストローを挿すための穴からは今にもその灰がこぼれようとしていた。