ハルに風邪ひいた

駆け出し宇宙工学者が気が向いたときに書く方のブログ

T☆A☆N☆K☆A☆2

8個だけ短歌を作った。

ただ、それだけです。

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レムの間のあなたがやさしいやわ肌のオートミールを噛みしめてゆく

 

 

 

 

 

 

 

立ち漕ぎのウーバーイーツの加速度がウーバーイーツに運ばれてゆく

 

 

 

 

 

 

 

うん、ほんとありがとね、またLINEする、4.2秒、真顔に戻る(以下、繰り返し)

 

 

 

 

 

 

 

在るだけでありたい僕のアパートのチラシを捨てるためだけの箱

 

 

 

 

 

 

 

咳をしたからなのかな一人

 

 

 

 

 

 

 

海苔巻きは喪服のようで当分は死ぬ予定などない人が巻く

 

 

 

 

 

 

 

愛したら愛してほしい国道のマクドナルドがスマイルを売る

 

 

 

 

 

 

 

死んだって星になれないこの街の夜空のために輝くファミマ

 

 

 

 

 

 

 

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8個だけだってば。

T☆A☆N☆K☆A

久しぶりに、最近作った短歌をちょっとだけ並べてみる。

ただそれだけの回です。

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ゴミを出すこともマスクをすることも忘れて花を踏みつけること

 

 

 

 

 

 

 

しあわせはいじわるだからスシローの待合席が殺意で満ちる

 

 

 

 

 

 

 

日には日に水には水に庭に陽は差す息継ぎを習う日の朝

 

 

 

 

 

 

 

会いたい、が言えない朝にアサガオはフェードアウトでくたばってゆく

 

 

 

 

 

 

 

「真水だね」「真水だね」髪、揺れるときリズムをずらす風になりたい

 

 

 

 

 

 

 

ラスボスを倒してもGAME OVERと言われるゲームのようにぼくたち

 

 

 

 

 

 

 

箸置きは気休めだろう
三日月は幻覚だろう
恋は空箱

 

 

 

 

 

 

 

おめでとう、今日の一位はおうし座です
ラッキーカラーは地獄の緑

 

 

 

 

 

 

 

瞳孔を開くことからはじめよう夜景の見える絞首刑台

 

 

 

 

 

 

 

しょうゆ派を譲らなかったあの時の水かけ論の水になりたい

 

 

 

 

 

 

 

大丈夫、生きて腸まで呪うから
人には人のDead or Alive

 

 

 

 

 

 

 

木漏れ日が死ぬほどうざいお昼にはきみも孤独でありますように

 

 

 

 

 

 

 

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これだけの回ですわよ。

リヴリーは死んだ。僕は生きている。

 

小学四年生の僕は、大人のイケない世界に足を踏み入れようとしていた。オンラインゲームを始めたのである。

『リヴリーアイランド』というそのゲームは、当時ゲームボーイアドバンスに大脳皮質の全てを支配されていた僕にとってはあまりに革新的だった。ゲームの内容自体は、たまごっちのように架空の生き物を育成するというだけなのだが、革新的だったのはオンラインチャット機能である。夜、ゲームをしながら離れた場所にいる友達とコソコソおしゃべりをするというその行為は、小学校で流行っていた他のどの遊びよりも背徳的で甘美な匂いをプンプン漂わせていた。林間学校の消灯後の「いっせーのーせで好きな女子の名前言おうぜ!」的なあのドキドキワクワクを、リヴリーアイランドは毎日僕に届けてくれるのだった。

そんなリヴリーアイランドで、僕には一人だけオンライン友達がいた。『瑠璃色ユアン』という名前のその人とは、好きなRPGゲームの話で意気投合し、友達になったのだ。僕、改めユーザーネーム『くぼゆう』はユアンさんに惹かれていた。名前も顔も知らないどこかの誰かと、名前も顔も明かさずにおしゃべりをするその背徳感。さながら仮面舞踏会にでも参加しているかのような気分に、くぼゆうはすっかり酔いしれていた。実際にチャットをした回数こそ少なかったけれど、そして名前も顔も知らなかったけれど、名前も顔も知らなかったからこそ、ユアンさんはどこまでも謎めいていて魅力的に見えたのだった。

 

 

 

『なぜ私たちは斎藤工に色気を感じてしまうのか』

俳優・斎藤工の色気について、哲学研究者の永井玲衣さんの分析が面白い。*1

 

彼の挙動はしとやかである。まるで彼のまわりだけ時間が止まってしまったみたいだ。そして、ミステリアスなまなざしをこちらに向けている。それだけで、わたしたちは斎藤工について想像を駆り立てられてしまう。

(中略)

しかし、わたしたちはそれを知ることはできない。彼の深奥を探究したいけれど、かなわない。

(中略)

大事なのは、その知の獲得に駆り立てられること、そしてその獲得が本質的に不可能であることである。

 

小学四年生のくぼゆうがユアンさんに感じていたのはまさしくこの色気だったのだろう。パソコンの画面越しの彼との会話は、熱っぽいくせにやけに温度感が失われていて、繋がっているはずなのに謎めいていて、それはそれまで生きてきた十年間で初めて味わうタイプの興奮だったのだ。くぼゆうは十歳にして色気とは何たるかを身をもって実感してしまった。なんともオマセさんなくぼゆうである。

 

 

 

 

昨年末からの数ヶ月、冬の夜空で尋常じゃない色気を放っていた星が一つある。ベテルギウスという星だ。冬の大三角にも属するこの代表的な一等星が、11月頃から急激にその明るさを失っていっていることが天文学界で話題になっていたのだ。何しろこの急激な減光は、ベテルギウスが死を迎えて最期の大爆発を起こす予兆かもしれないというので大騒ぎだったのである。これほど明るい星がもし大爆発すれば、人類史上でも稀に見る一大天文ショーになる。明日には爆発するんじゃないか、今この瞬間にも爆発するんじゃないか、と僕らの心を駆り立てるだけ駆り立てておいて、ベテルギウスはただ静かに哀愁たっぷりに、どんどん暗くなっていった。

 

ベテルギウスの色気は、斎藤工どころの騒ぎではない。斎藤工なら死ぬ気でネトストすればなんとか生きているうちに会うことぐらいはできるかもしれないし、もし運が良ければそのミステリアスな私生活の一部をこっそり覗き見できるかもしれない。近所のドラッグストアで鼻セレブなんかを買っているところを目撃できちゃうかもしれない。しかしベテルギウスには圧倒的に手が届かない。距離にして6000兆キロメートル。1秒で地球を7.5周するという光の速さで飛んで行っても640年もかかる。かたや人間の乗れる宇宙船は数十分かけてようやく地球を一周する程度のスピード感だ。宇宙船に乗って僕らがベテルギウスに直接会いに行くことなんて全くもって不可能なのである。

というか光が届くのに640年かかるということは、そもそも今僕らが見ているベテルギウスは今現在のベテルギウスではなく、640年前のベテルギウスである。たとえ今爆発していないように見えたとしても、それは640年前のベテルギウスが爆発していないというだけで、彼が今この瞬間に生きている保証は全くない。物理的に手が届かないどころか、今現在生きているか死んでいるかすらも知り得ることのできないという、最高のミステリアス。そして逆に今僕がこうして生きている映像がベテルギウスまで届くのは640年後で、どれだけ長生きしてもそのとき僕はこの世にはいない。なんという決定的なすれ違いだろう。ベテルギウスの色気は斎藤工よりも壇蜜よりも綾野剛よりも凄まじいけれど、彼と僕が同じ瞬間を共有することは決して、決して許されない。

 

 

 

 

ある日、くぼゆうのリヴリーアカウントにログイン不可能になるという事件が起こり、アカウントを新たに作り直さねばならなくなった。くぼゆうは焦った。くぼゆうの頭に真っ先に浮かんでいたのはユアンさんである。他の友達なら小学校で直接聞けばいいが、彼とはオンラインでしか友達でないので、覚えている情報だけを頼りに探すしかない。くぼゆうはユアンさんを探した。記憶を辿りに辿ってようやくユアンさんを発見し、興奮気味にユアンさんに話しかけた。

 

「おひさしぶりです!前のアカウントで『くぼゆう』っていう名前だった者です!」

 

「は、誰だよ」

 

「覚えていないですか?××っていうゲームのお話ししたくぼゆうです!アカウント変えたんです!」

 

「誰だよ、殺すぞ」

 

誰だよ、殺すぞ、それが彼の放った言葉だった。ユアンさんはそれからくぼゆうのことを激しく攻撃しはじめた。くぼゆうの掲示板に罵詈雑言を書き込み、くぼゆうがその書き込みを消すと、消したことをまたさらに攻撃的な言葉で批判してきた。どうしようもなくなったくぼゆうは、兄になりすました。「弟も反省しているので……」と一人二役で掲示板に謝罪の書き込みをした。それでも彼は聞く耳を持ってくれなかった。彼の友人と思われる人までもがくぼゆうへの攻撃に加担しはじめた。生まれて初めて体験するネットトラブルだった。しばらくしてこのトラブルは隣のクラスの先生の耳に入り、僕は職員室の小部屋に呼び出されて、泣きながら一部始終を話した。それから放課後、家に担任の先生が来て母親に事情を説明した。僕はその日からリヴリーアイランドを禁止された。

悲しかったというよりも、呆然としていたと思う。僕にとってのユアンさんは唯一無二でかけがえのない友達だったけれど、ユアンさんにとっての僕は名前のないネット住人の一人でしかなかった。少しチャットをしただけで友達になったと思っていたのは僕だけだった。僕の心を駆り立てるだけ駆り立てておいて、僕の知っているユアンさんはどこかに行ってしまった。魅力的で意地らしい、ひんやりとした色気の残り香だけを漂わせて。鼻腔に残る微かなにおいを嗅ぎながら、僕はぼーっとしていた。僕が見ていたユアンさんは本物だったのだろうか。好きなゲームの話で意気投合したあの時間は全部、僕の勘違いだったのだろうか。勘違いならいい。そうであってほしい。もしそうでないならば、色気というのはあまりに残酷だ。

 

 

 

光の速さは有限なので、とっても厳密なことを言うと僕の目に飛び込んでくるあらゆる映像は過去のものだ。僕の目に映る1メートル離れたあなたは3億分の1秒前のあなただし、たとえどれだけあなたに歩み寄ったって、1センチメートル先に佇むその瞳は300億分の1秒前の瞳だ。視覚の上では、僕らは「今この瞬間」を決して誰とも分かち合うことはできない。視覚の上では、僕らは決定的に孤独だ。

中島らもさんも同じことに言及し、彼の著書の中で一つの解決策を示していた。*2

 

人間の実相は刻々と変わっていく。無限分の一秒前よりも無限分の一秒後には、無限分の一だけ愛情が冷めているかもしれない。だから肝心なのは、想う相手をいつでも腕の中に抱きしめていることだ。ぴたりと寄りそって、完全に同じ瞬間を一緒に生きていくことだ。

 

決して埋めることのできない時間のずれを乗り越えるには、できる限り近くで相手の存在を受け入れていくしかない。その息遣いを、その声色を、温度感を、肌の手触りを、髪の匂いを、手の握り具合を、なるべく絶え間なく受け入れていくしかない。そこには、色気は存在しない。人間という生身の動物は、ツヤっとした画面越しのミステリアスな存在とは違って、きちんとリアルだ。きちんと汗の匂いはするし、きちんと顔にはシミもある。どうでもいい話を振ってくることもあれば、感情を露わにしてくることもある。生身の人間と対峙することは面倒くさくて恐ろしい。

色んなことがそうだ。旅行雑誌で見る『特集!神々の島・バリ島』みたいな記事にはこの世のものとは思えぬ神秘的な世界が広がっているけれど、実際に行ってみるときちんと蒸し暑いし、きちんと蚊やハエは多いし、車からはきちんと排気ガスが出ていて、雨はきちんとうっとうしい。テレビ番組『鶴瓶の家族に乾杯』ではやたら幸せそうな素敵な家族の姿が映されているけれど、きっとその家族もソファでいびきをかいて寝ているお父さんを邪魔だなと思うし、やたらとお風呂の長い姉に対してイライラもするし、ポチが散歩中にしたフンを処理するのはダルい。隣の芝はいつも色気たっぷりで、うちの芝はいつもきちんと芝だ。

けれど僕は、その面倒くささを愛したい。だって僕は本質的に孤独で、色気はあまりに残酷だから。面倒くさくて、生き物くさくて、時に恐ろしいものと正面から向き合うことでしか得られない何かを大切にしたい。それは、何かだ。色気たっぷりでミステリアスなベテルギウスとは決して共有することのできない何かだ。15年前にくぼゆうがユアンさんと決して分かち合うことのできなかった何かだ。甘美な香りのする色気もいいけれど、やっぱり僕は人と向き合いたい。面倒くさいことに巻き込まれたい。生き物のにおいに踊らされたい。「もう、父さんそこで寝ないでよ!」とか言ったり、「なんでいつも分かってくれないの!?」とか言われたりしながら、生きていたい。

 

 

 

 

 

 

驚きのニュースを目にした。

 

「ペット育成ゲーム『リヴリーアイランド』、16年の歴史に幕」

 

なんと3ヶ月前ぐらいにリヴリーアイランドはサービスを終了していたらしい。この記事を書いている途中で何気なく調べてみて初めて知って驚いた。3ヶ月前というとちょうど、ベテルギウスの減光で大騒ぎになっていた頃だ。んんん、なんというタイミング。検索画面をスクロールしていくと、サービス終了の知らせを聞いた長年の古参ユーザーたちのブログ記事が出てきた。そこには、自分の愛したリヴリーとの最期を思い思いの形で迎える様子が描かれていた。僕は口をちょっとだけとんがらせながら、彼らの思いの丈をさらさら読み流していく。

あれ、そういえば、『くぼゆう』のアカウントはあれから15年間どうなっていたのだろうか。たしかあの時パソコンを買い替えたか何かのせいで、パスワードの再設定ができなくなってアカウントにログインできなくなってしまったのだった。だとするとそのアカウント自体は15年間ずーっと生きていたことになる。この15年間、僕が小学校、中学校、高校、大学と歳を重ねている間、くぼゆうはずーっとずーっと冬眠状態ながらも生き続けていたのだ。生き続けていて、そして3か月前のある日突然死んだ。リヴリーの世界ごと、みんな死んだ。ユアンさんも、攻撃的な掲示板の書き込みも、何もかも死んだ。

 

今日も夜空にはベテルギウスが輝いている。オリオン座の右肩に位置する赤い星。そこから左の方へ冬の大三角がいつものように伸びている。のちの調査で分かったのだが、結局あの減光は爆発の予兆ではなく、ちょっとした気まぐれでいつもより明るさが落ちてしまっていただけのようだ。

「え、別に全然死ぬとかではないですけど?少し落ち込んでいただけですのでどうぞお構いなく」

と相変わらずの塩対応で輝くベテルギウス。おいコラ、心配したこちらがバカみたいじゃないか。

色気なんかに構わず生きてやる。意地でもお前より長生きしてやる。お前より儚くて、お前より面倒くさくて、色気の欠片もないたくさんのことと正面から向き合いながら、生きてやる。

 

*1:永井玲衣 なぜ私たちは斎藤工に色気を感じてしまうのか/色気を哲学する AM

*2:中島らも『サヨナラにサヨナラ』, 愛をひっかけるための釘 (集英社文庫) より

連載開始のおしらせ

東京大学のオンラインメディアUmeeTにて、連載を始めることになりました。前回の記事を読んでくれたUmeeT初代編集長の杉山大樹さんのお声がけで実現した企画です。気が向いた時に気が向いたことを書く超個人的なブログながら、自分以外の人間に良い時間を与えられていることは素直に嬉しいです。

このブログと同じく、宇宙を軸としたりしなかったりするエッセイを書きます。月1回ぐらいのペースで書いていく予定です。

 

僕のUmeeTトップページはこちら。

todai-umeet.com

 

 

しばらくこのブログの投稿はお休みになると思いますが、相変わらず気まぐれに何か書くかもしれません。おたのしみに。

それでも、まるい地球を選びたい

 

今年の正月休みは、実家の布団でフルタイムを過ごすはめになった。インフル・ザ・フィーバーである。

年末にかけての追い込みの半徹夜が響いたのだろう、帰省初日から順調に体調は悪化していき、いよいよ大晦日の朝にピーク。40度の熱、ほぼ幻覚のような夢、最悪の目覚めだ。助教の先生が黒い紐のようなものを寄せ集めて球体にして、『これがプロジェクトチームの総意である!』という謎の声明を発表するという恐ろしい幻覚だった。しかも何度寝直しても全く同じ幻覚が再生されるのだ。恐怖だ。かれこれ数十回連続で見た。さすがに40度熱が出ると人の脳みそはバグる。発症がもう1日遅かったら、危うくその幻覚が初夢になるところだった。それはそれで安部公房みたいな世界観の1年になって楽しかったのかもしれないけれど。

 

 

驚いたことに、母親がおそろしく優しい。昔は体調を崩そうもんなら、『てめえ、このクソ忙しいのによくも風邪なんか引いてくれたな!』と、極道の二文字をチラつかさせる勢いだったのが、今となっては『あんたも、せっかく帰って来たのに大変やったねえ。』などと優しく洩らすのである。チラつかせるのは聖母の二文字だ。

僕もいよいよひとり暮らしが長くなってきたので、こうやって手厚く看病してもらえると、もうこの上なく極楽で仕方ない。寝て、起きたらお粥が出てきて、また寝て、起きたらうどんが出てきて、おまけにハーゲンダッツまで出てくる。ああ、なんて僕は親不孝な息子なんだ……という背徳感すら、もはや心地よい。ああ、世界は僕を中心に回っている。ああ、僕は世界に愛されている。安全で、穏やかで、できるならずっとこうやってぬくぬくしていたい……。

 

 

ただ、これほどこの上なく幸せなのにどうしても1日中布団にこもっていると強烈な焦りを感じてしまう。僕はこうやって布団にうずもれたままどこまでも腑抜けて、堕落して、一生何にもなれず、どこにも行けず、世界と正常に関われないかもしれない、という焦りだ。普段の土日でこういう日があっても、どうせすぐ月曜日がやってくるので結局腑抜けることは(でき)ないのだが、インフルともなると強制的に寝床に縛られるので、この焦りは着実に、そして急激に膨らんでくる。

『お前は親不孝で、腑抜けで、世界中から見放されたダメ人間だ!そう、それがプロジェクトチームの総意である!』

数日前までバグっていた脳みそがすっかり真人間の顔をして声明を述べている。

ごめんなさい、ごめんなさい。役に立たなくてごめんなさい。

 

 

 

 

 

 

そんな時、僕は太陽系の動きのことを思う。

「僕らは地球に寝転がっているだけで秒速500メートルという猛スピードで動いているのです」とよく言われる。地球が自転しているからだ。秒速500メートル。100メートル走を0.2秒で走るスピードだ。ウサイン・ボルトが泣いてしまう。

ただ、それだけではない。僕らはさらに秒速30キロメートルで動いている。地球が太陽の周りを公転しているからだ。30メートルではない。30キロメートルだ、1秒で。箱根駅伝を2日間あわせても7秒で走り切るスピードだ。青山学院が泣いてしまう。

それだけではない。銀河の巨大なスケールで見ると、我々の太陽系全体も1つの点として銀河内をぐるぐる周っている。そのスピードは秒速240キロメートル。太陽も、水星も、木星も、ハレー彗星も、小惑星リュウグウも、そして僕らも、全て一緒になって秒速240キロメートルで銀河の中心に対して周っている。日本列島を10秒で縦断するスピードだ。JRさんが泣いてしまう。JALANAも当然泣く。

まだだ。直径10万光年、つまり直径900兆キロメートルの我々の銀河系も、超巨大なスケールで見れば全体が1つの点として銀河の集団の中を動いている。そのスピードは秒速600キロメートルぐらいだそうだ。もうみんな泣きながら肩を組んでサライを歌っている。

僕が布団にくるまっている間も、僕を乗せた地球は猛スピードで宇宙を動いている。ちっぽけなひとつの歯車として確実に宇宙を成り立たせている。途方もない、気が遠くなる話だけれど、なぜだか僕はその事実に勇気づけられるのだ。閉めきった部屋でどうしようもなくうなだれている日も、僕は確実に昨日とは違う場所にいる。それは僕の精神の最も根底の部分を支えていると思う。気持ちの問題だけれど、気持ちが問題なのだ。

 

 

 

 

 

「フラット・アーサー」という人たちがいる。Flat Earther。「地球平面論者」と訳される。我々の住む地球は球体ではなく平面の円盤状で、その外周は高い氷の壁に覆われていて、そして宇宙などこの世に存在せず、現在の宇宙に関する全ての通説はNASAによる陰謀だ、と心の底から信じている人たちだ。あり得ないと思うかもしれないが、彼らは大まじめにそう考え、そう支持する「証拠」を精一杯集め、主にキリスト教圏で今も勢力を拡大しているらしい。*1

 

彼らの気持ちは、実はすごく分かる。もちろん科学的には山ほどケチをつけたいけれど、それでも、気持ちはとってもとっても分かる。

 

だって僕らはこんなにも生きているのだ。こんなにも、僕が生きていることは大事でたまらないのに、それなのに、実は地球は世界の中心なんかではなくて、銀河系の端にある太陽という何の変哲もない恒星のまわりを周っている惑星のひとつで、銀河には他に一千億の恒星があって、その銀河自体もまた一千億個あって、それなのに僕らはお隣の恒星まで行くことすらできない、時間的にも空間的にもちっぽけなゴミみたいな存在です、だなんてそんなのあまりに理不尽だ。神様がいるのなら、世界をこんな風に作ってしまうだなんて意地悪すぎる。神様は僕らを愛していない。

地球だけが世界の中心であってほしい。僕らだけが特別でありたい。僕らだけが神様から愛されていたい。布団の中で母親の愛を一身に受けて看病される時のあの心地よさで、世界の中心で一身に神様の愛を受けて生かされていたい。地球の年齢が45億歳だとか言っているのに、僕らはたったの100年しか生きられないのだ。それなら、愛されていないと嘆くよりも、つかの間の嘘を受け入れてでも愛されていると信じていたい。

その気持ちは、苦しいほど、よく分かるのだ。

 

 

 

 

それでも、やっぱり僕は、僕を乗せたこのまるい地球が秒速600キロメートルで宇宙を駆け抜けている姿を想像したい。それは決して自分の心を安寧にする妄想ではなく、たくさんの観測事実に基づいた途方もなく確かな現実である。だからこそ残酷で、だからこそ僕は勇気づけられるのだ。どんなに前に進めない時も、どんなに明日が揺らいで見えても、僕は確実にこの宇宙のダイナミクスを成り立たせているという事実が、僕の足を前に進めている。安全で穏やかな布団の中も良いけれど、神様に愛された世界も幸せだけれど、それでも僕は冒険に出たい。それでも、まるい地球を選びたいのだ。

 

 

 

 

 

 

ブログを書いていたらいつの間にか日曜日が終わっていた。やばい。明日からの服が無い。2週間ためこんでいた洗濯物を急いで洗う。『おまえ、せやからこまめに洗濯しろゆうたやろがい!』と言わんばかりに洗濯機が巨体をわなわな震わせている。ごめんなさい、ごめんなさい。ずぼらな性格でごめんなさい。

コインランドリーへ向けて自転車を漕ぎ出す。カゴの中の2週間分の生活の抜け殻は水を含んでさらに存在感を増し、僕の自転車をぐいぐいと前に引っ張っていく。少し不安定で怖いけれど、でも今ブレーキをかけてしまうのは、なんだかすごくもったいないような気がする。だから今は、できるだけしっかりとハンドルを握ろうと思う。車輪は、物理を尊重しながらすーっと転がっていく。僕が選んだゆるやかな球体の上を、すーっと転がっていく。