ハルに風邪ひいた

駆け出し宇宙工学者が気が向いたときに書く方のブログ

ジュンのキャンドル、キャンドルのジュン

 

今日の僕は何でもできる。

 

 

アラームの音もなしで目を覚ました僕は、1秒前まで見ていた夢の余韻をひきずることも無くそう確信した。時計は昼の12時を指そうとしている。しまった、寝すぎた、と思ったけれどうちの時計は20分早いのだったと思い出してまだ11時35分だと気づく。ただ起きただけで20分も得をした。今日の僕は何でもできる。

頼まれていた仕事を消化するために家を出る。適当に半袖シャツ1枚で外に出ると、気温は30℃近くて、暑すぎず寒すぎずちょうど良かった。5月は毎日長袖を着ていたのに今日に限ってなぜだか的確に半袖を選んだ。やっぱり僕は何でもできる。

やるべき仕事を滞りなくこなす。僕は何でもできるからすぐに仕事は終わった。

自転車に乗り込むとなんだか急にスタバに行きたくなった。そういえばずっと喉が渇いていたことに気付く。大通り沿いに悠然と看板を掲げるスタバ。周りはコンクリートだらけなのにこの一角だけおしゃれな森の小屋みたいになっているスタバ。何でもできる今日の僕に相応しい休憩スポットのはずだ。

横文字の横文字まみれフラペチーノみたいなやつを注文する。「トールサイズの横文字の横文字まみれフラペチーノでございますね。」どういう味なのか想像がつかないけれど僕は全知全能のフリをしてポソリとうなづく。なにしろ今日の僕は何でもできるのだ。MacBookに思考の全てを支配された全知全能のスタバドヤラーたちになめられてはならない。

青空を見たくて窓側の席に座ると、「まぶしいので閉めちゃいますね」と店員さんにブラインドを降ろされた。雲一つない大きな大きな今日の空は、ブラインドの隙間わずか数ミリの幅に細長く切り刻まれてしまった。

今日の僕は何でもできる。だから、きっと今日の僕の運勢は最高だ。ヤフー12星座占いを開く。

 

おうし座 総合運60点

ふと、繰り返しの日常から離れたくなる日です。具体的な不満はなくても、現実から離れて行動したくなりそうです。

 

なんでこんなにも僕のことを知っているんだろう。太陽が大体おうし座の方向に見える時期にこの世に生まれた、という雑な理由だけでどうしてこんなにも僕の行動を型に埋め込んでしまうんだろう。今日が所詮60点の日だなんて言われなくても分かっているのに、なんでわざわざそれを僕に突き付けてくるんだろう。

 

開運のおまじない

危険のないようにして、キャンドルなどの炎をただ、見つめて。落ち着きます。

 

うるせえ!甘い匂いのするろうそくなんて死ぬまで絶対買わないからな!死ぬまでキャンドルを呪い続け、それで僕が死んだら葬式の時にはあてつけのようにキャンドルを焚きまくってやる。お坊さんの法衣にべったりラベンターの香りをつけて、奥さんにキャバクラ通いを疑われるように仕向けてやる。なんなら火葬もキャンドルでやってやる。最高に甘い匂いのする生焼けの死体になって、通りすがりの人におしゃれな焼き肉屋ができたんだと勘違いさせてやる。

 

星占いなんか嫌いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

昔の昔の大昔、地面は平らで天はドームのように世界を覆っていると本気で思われていた頃、星占いは地上の吉凶を予測する重要な儀式だった。日食や月食が起きると人が死ぬ。生まれた時の月や惑星の位置関係で人の運命が決まる。そんなことを本気で信じていた。天は畏れの対象でありながら、実体があった。だから、畏れを抱きながらも人間と天はつながっていられた。

 

昔の昔のそんなに昔でもない昔、幼稚園児の僕は車に乗りながら昼間の月を眺めていた。父がアクセルをぶおーんと踏み込むと建物はビュンビュン通り過ぎて行くのに、月はいつまでも僕らの車と同じスピードで走ってくれた。渋滞で車が止まると月も律儀に止まって僕らが走り出すのを待ってくれた。月は優しかった。紳士だった。身近で歳の離れた寡黙なおじさんのようだった。僕と月はつながっていた。僕と月はつながっていられた。

 

 

 

 

 

 

 

ソフトウェアが計算の終了を知らせる。1999年5月25日20時47分49秒、僕がまだ5歳だった年の現在時刻を入力すると、NASAの公開データからその日時での月の位置と速度が読み出される。僕が計算した宇宙機の軌道はその時刻に狂いなく月に到達し、月の重力で正確に方向を曲げられてまた狂いなく地球に戻ってきた。今日の僕は何でもできる。月はコンピューター上で僕の指示通りに動いていて、僕は月を配下に従えたような気分になる。

 

配下に従えると、月は優しくなくなってしまった。その昔一緒に走ってくれたのは、僕の勘違いだったことも知った。ただ月は遠くにあるだけだった。遠くにあって、僕らの車のスピードとは一切関係なくゆっくり公転しているだけだった。彼はもう紳士なおじさんではない。天は世界を覆うドームではない。地面は平らではない。僕がいるのは太陽系第3の惑星で、球形をしていて、衛星をひとつ持っている。何でもできる今日の僕なんかまるでこの世に存在すらしていないかのように、その衛星は黙々と地球の周りをまわっている。

僕と月はもう二度とつながれなくなってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あっという間に陽が暮れた。何でもできる僕は何にもせずに一日を終えようとしている。

レッドブルを買いに行く。ついでに夜食も買おう。明日の朝ごはんも買おう。蒸気の出るアイマスクも買おう。キャンドルだけは、死んでも買わない。