世界、穴だらけ
救急車を初めて見た時のことをよく覚えている。
そのとき僕は父の運転する車の後部座席に乗っていた。サイレンの音が遠くから近づいてくると、その音波の振幅に比例して交差点に緊張感が高まり始めた。緊張感は空気を揺らがせる。その揺らぎが歩行者たちの足並みを揺らがせる。揺らぎはガラス越しに僕らの車内にも届いて、揺らがされた父は手際よくその音源の方向を特定して車を脇に寄せる。炎天下で汗を拭うサラリーマンも、肘まである手袋とサンバイザーでキメたおばちゃんも、イカツイ顔面を貼りつけた対向のミニバンも、それぞれが揺らぎの中の適切なポジションを察知して配置につく。
やがて、揺らいだ空気の真ん中を救急車がビューンと突き抜けた。
その瞬間を、日常に突如差し込まれた祈りのようなその瞬間を、しっかりと覚えている。
名も知らぬ人間たちが、名も知らぬ人間の命のために揃って歩みを止めるその光景は、まだ幼い僕の心に鮮烈に刺さったのだった。
こんなツイートが流れてきた。
ドーナツの穴は、本当にドーナツがないと存在しないのか。
— たま|広場を紡ぐ (@ta213ma) June 27, 2019
ドーナツの穴。ドーナツ本体という実体が生まれた結果、ついでに生まれてしまった穴。生まれたと言っても実体を持っているわけではなく、でも確かに存在感を持ってそこにある。そこにあるんだけど何も無くて、それなのに「やっぱ穴がなきゃドーナツじゃないっしょ!」と、なぜかドーナツのアイデンティティを一身に背負わされてしまっている不思議な奴。それがドーナツの穴。
先ほどのツイートの彼女はブログの中で、そんなドーナツの穴という微妙な存在は、「確実性が高い『ドーナツ生地』がないと存在が明らかにされないのか」という疑問を投げかけ、さらにそのドーナツの穴を人間の心の揺らぎや葛藤になぞらえ、こう問いかけてくる。
揺らぎとか葛藤は、明確な言葉や行動などのアウトプットでしか存在が認識できないのか。その微妙な存在を、微妙なまま感じ合うことはできないのか。*1
声を張り上げながら募金活動する小学生たちの横を素通りする時、
泣きながら駅の柱にもたれかかっている女性の横を素通りする時、
前を歩く人の鞄から落ちたペットボトルごみの横を素通りする時、
シャツを汚しながら嘔吐している男子大学生の横を素通りする時、
僕の心の揺らぎは、葛藤は、確かに存在している。
本当は、世界はドーナツの穴だらけなのかもしれない。たとえ今ドーナツ本体がそこに無かったとしても、この何もない空間すべてがドーナツの穴になれる可能性を秘めていて、そんな、手に取ることはできない可能性としてのドーナツの穴を、可能性としての心の揺らぎを、葛藤を、可能性のまま感じることができたら。そんなのは甘っちょろい考え方だと嘲笑う自分の左側の脳みそを、それでも受け入れて信じることができたら。
世界は変わるんだろうか。
雨。
雨。
高円寺を行く僕のスニーカーは地面のなるべくすれすれを這う。
好きな歌人のイベントに行った。財布を忘れて何も買えなかったけれど。
「あの人はね、裏ではあんなこと言ってるんすよ。結局ああいう人間なんすよ。」
こそあどの『あ』だけで描写された『あ』の人の失われた可能性のことを思う。
『こ』んな思い、『そ』んな行動、『ど』れが本物で、『ど』れが嘘なんだろう。
「中央線には現在10分ほどの遅れが出ております」
「出ております」
「明日小テストとかマジ死んだ方がいいわー」
「そう、ごめん、今ちょっと電車遅れてるみたい」
「これ、タッチしても反応しないんだけど」
「危ないですので離れてくださーい」
「うん、また水曜日ねー」
「別に怒ってないけど」
「危ないですので、離れてくださーい!」
「そう、トリキのキャベツで3時間粘ったからね」
「耳が不自由です はっきり口元を見せて話して下さい」
「中央線には現在10分ほどの遅れが出ております」
「出ております!」
「出ておりますよっ!」
あの日、サイレンが遠く走り去ると、揺らいだ交差点の空気はのっぺりと元の形状を取り戻していった。サラリーマンはサラリーマンの顔をして、おばちゃんはおばちゃんの顔をしてまた歩き始めた。僕がたしかにこの目で見たはずのあの美しい空気の揺らぎは、あっという間に均質化されて見えなくなってしまった。
救急車を妨害しないのは、交通違反になってしまうからである!
走行妨害と患者の死亡との因果関係が認められれば、刑事責任を問われるのである!
そうである!
そうであるけれど。
「あの、勘違いかもしれないんですけど」
「スクープ!IT実業家との濃厚密会8時間!」
「草」
「前見ろや死ね」
「離れてくださーーい!」
「落とすよ」
「落としましたよ」
「落ちろ」
「ラーメン!つけ麺!僕!」
「就活浪人」
「大丈夫ですか?」
「ありがとね」
「あたま、大丈夫ですか?」
大丈夫、
「今、駅着いたよ」
「泊まってく、今日?」
「飲み足りないから持ってんの~!はい!」
「せっかくなんやから、すごい人になってや」
「そーれはいわゆるそーそお!S!O!S!O!」
そう、
「危ないですので離れてくださーい」
「全然怒ってへんよ」
「トリキのキャベツ」
「離れてくださーい」
「そんなに悪い人ばっかりじゃないと思うけどな」
「ご協力ありがとうございまーす」
そう、世界は、
「全国的ににわか雨や満月を伴う快晴の気分でよろしいでしょうか」
「じゃあね」
「よろしいかと思われます」
「バイバイ」
「問題です」
「貝は貝でも抱きしめたくなる貝なーんだ」
名も知らぬ人間たちが、名も知らぬ人間の命のために揃って歩みを止める、あの、
「正解は」
「世界」
あの、瞬間を、
「甘っちょろくても、信じていたいなあ」
世界は、きっと、穴だらけ。