ハルに風邪ひいた

駆け出し宇宙工学者が気が向いたときに書く方のブログ

木漏れ日がところてん

夏ごろに作った短歌を中心にまとめた。ただそれだけの回です。

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在り方を問う後頭部に突き刺さるレクイエムのごときYMCA

 

 

 

 

 

 

 

(無常観-無常感)×0.1のような明け方5時の青ねぎ

 

 

 

 

 

 

 

毒色のサーティーワンを舐めたあと手を繋ぐより繋がれたい昼

 

 

 

 

 

 

 

iPhoneの宵、酔い、余韻の予測

今、君と朝まで呑みたいと思う

 

 

 

 

 

 

 

何者かの何かのための軒下で監視カメラと分け合う雨音

 

 

 

 

 

 

 

生爪の裏の肉片をすりつぶし「人生は長い暇つぶし!」なう

 

 

 

 

 

 

 

名も知らぬ町に名がありその町で名もなき僕のためだけのローソン

 

 

 

 

 

 

 

ブレスケアのbreath taking、はっとして、ほっとして、バス、君を連れ来る

 

 

 

 

 

 

 

火葬場にちいちゃんの世界がありつまり人はいつでも幸せであれる

 

 

 

 

 

 

 

大丈夫の真ん中の人大丈夫?の真ん中の人大丈夫だよね?

 

 

 

 

 

 

 

うたかたとほうまつを足して2で割ってあわよくば夏の答えを知りたい

 

 

 

 

 

 

 

砂時計内の砂A、砂Bが出会うようにして今日も君と朝

 

 

 

 

 

 

 

変拍子的三三七で頭かく

言えない理由を聞いているのに

 

 

 

 

 

 

 

潰れれば赤い塊になるきみのツンデレひとつ愛しくて草

 

 

 

 

 

 

レバニラを上手に作りたいというデジャブ人間であるのは束の間

 

 

 

 

 

 

 

READMEREADYOU

夜、この街の空気はぼくらを邪魔せずにある

 

 

 

 

 

 

満月に少し足りない夜だけは足りない人の足りなさが好き

 

 

 

 

 

 

 

木漏れ日がところてんきみの弾力がきみの弾力が、きみ、きみのための夏

 

 

 

 

 

 

 

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冬はきらいだ!

 

 

キューブでありるったかもだろうんだね

まだまだ懲りずに短歌を作っている。

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パチキューン、光を食べる音

またも写ルンですのあまりにも早い死

 

 

 

 

 

 

 

死ぬことを覚える前に生きることを死ぬほど覚えよ、たまごボーロマン

 

 

 

 

 

 

 

きの音のくうきの音がすききりんすきすきききききききりんのし

 

 

 

 

 

 

1ホールのケーキを買う意図アイプチを貼る意図そうめんが揖保乃糸の意図

 

 

 

 

 

 

 

人の意図人の意図人の意図人の意図人の意図人の意図人の意図人の意図ひ

 

 

 

 

 

 

 

性欲のリッシンベンで火を灯すふたりの夜に嘘が無いこと

 

 

 

 

 

 

 

微熱だよ、いや熱だから、微熱だよ、いや熱だって、という名の詩人たち

 

 

 

 

 

 

 

皆さまの小さな勇気が子供らの未来を奪う、がんばれ日本!

 

 

 

 

 

 

 

死ぬまでに死ぬほど遠くに行こうこの星の重力はたかが三次元

 

 

 

 

 

 

 

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美術館が好きだ。

美術が好きだ、とは言わないのは絵画や写真自体にさほど執着があるわけではないからだ。絵は棒人間専門だし、写真は写ルンですでちょっとしたエモノスタルジック写真が撮れればそれでもう満足してしまう。だから、歴史的に価値の高い作品とやらを観ても何がすごいのかいまだに説明できないし、セザンヌだったかスザンヌだったか毎度忘れてしまう(モネとマネの違いはようやく分かり始めた)。そんなわけで、美術館に行っても作品を純粋に鑑賞している時間は実は半分も無かったりする。では一体何をしているかというと、ほとんどの時間は作品を観ながら別の考え事をしているか、何も考えずぼーっとしているか、手を繋ぎながらわちゃわちゃ鑑賞しているカップルの人間観察をしているかのどれかだ(彼氏が彼女の前でドヤ顔をしてたりなんかすると余計にガン見してしまう)。

おい、そんなことなら別に美術館なんか行かずに一人でやればいいじゃないか、と言われそうだが、それは、そうでもないのだ。芸術家が魂をこめて生み出した作品たちは、それはそれは途轍もないエネルギーを秘めていて、そのエネルギーを一身に浴びる間、僕の体が、脳が、わずかに変化する。進化すると言ってもいい。無理やり進化させられてしまうと言ってもいい。そうして進化させられた体と脳は、普段の僕では考えもつかないようなアイディアや、言葉を導き出すことがある。美術館という凄まじいエネルギーを持つ空間でのそうした体験を、僕は愛しているのだと思う。いくら価値のある作品でも、自分の身体や思考に影響を与えないものはどうでもいいのだ。結局僕は、自分のことにしか興味がないんだと思う。

 

 

 

 

フィリップス・コレクション展を観てきた。アメリカのダンカン・フィリップスさんが90年代に熱心に集めた作品群の展覧会で、ドラクロワシスレークールベ、モネ、ドガマティスゴッホピカソなどなど教科書でお馴染みの名だたる巨匠たちの絵が一堂に集められており、なんとも贅沢な空間に仕上がっていた。相変わらずふらふらと考え事をしたりぼーっとしたりしながら見ていたのだけれど、ふと思う。

ピカソやばくね?

この並びで観ていくと、明らかにこいつだけ異質である。いやだって、なんだあれ。やたらカクカクした馬と牛が、ありえない姿勢で頭とお尻を同時にこちらに向けている*1。もう体どないなっとんねん。一体どの角度から、どんな瞬間を切り取ったものなのか。というか本当に牛なのかも怪しいレベルだ。これがいわゆる「キュビスム」という画法だそうで、ある時期に一大ムーブメントとなって流行したそうだ。なるほど、巨匠さんとやらが考えることは僕みたいな一般人チンパンジーには理解できないってことね、はいはい、と半分拗ねながら観ていたが、同じくキュビスム創始者ジョルジュ・ブラックの作品に付いていた解説が目に留まる。

 

本作品においてブラックは、(中略)傾斜したテーブルの上のモティーフを複数の視点から同時に捉えている。*2

 

ああ、多次元になりたかったのか、と僕は勝手に納得してしまう。

たとえば僕らが生活している三次元の世界は二次元平面の世界が空間的に無数に重なってできたものだと考えると、僕らが両目で世界を見ている瞬間は常にその中から片目1枚ずつ、計2枚の平面映像を選んでそれらを重ね合わせて見ていることになる。ならばもっと多次元の世界でたくさんの目玉をつけて生活している未来人or宇宙人がいたとしたら、彼らは僕らの住む三次元世界が空間的にも時間的にも無数に重なってできた世界の中で、複数の視点の、かつ複数の時点の、三次元の映像を「同時に」見ることができるはずだ(映画『インターステラー』や『メッセージ』を観た人には分かってもらえるだろうか)。思うに、ピカソたちはそういう「視点」を描いたのではないか。そういう多次元の世界での「一瞬」を二次元の画面に投影してみせたのではないか。そう思うと、なんと合理的な手法だろう、と納得してしまったのだ。それは僕らのこの三次元世界のどうしようもない肉体限界を超えるための、極めて合理的で、知性的な試みなんじゃないか。

もちろんキュビスムの正しい解釈を知らないのでこれは勝手な妄想だけれども、僕にはどうもそれで、目の前の巨匠くんたち一同に親近感が湧いてしまった。たしかにそういう感覚、僕にもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「多次元になりたいんだよね」

ある飲み会の後、町田駅の連絡通路を歩いている時、酔っていた(自分に酔っていた)僕は後輩にこんなことを口走った。なんじゃそりゃ。キアヌ・リーブスかお前は。後輩の反応をあんまり覚えていないけれど、若干引いていた可能性は高い。

ただ字面の何とも言えぬイタさはさておき、素面の状態の今でもこのセリフは僕にとっては全く嘘のない言葉だな、と思う。僕は、多次元になりたいのだ。

 

幼い頃、少なくとも小学校低学年あたりには、僕はなぜか宇宙飛行士になりたかった。しかし、いつなりたいと思い始めたのか、なぜなりたいと思ったのかはよく分からない。「子供の頃ニュースで見た若田光一さんの姿がかっこよくて!」というようなありがちな記憶も特に思い当たらない。ただ当時からしっかりと感じていたのは、「宇宙はこんなにあり得ないほど広いのに、なんでこんな地上でチョロチョロ動いてるだけで一生を終えなきゃいけないんだ!」というどうしようもない不満である。我ながらいかついパンクマインドだ。でもこれもやはり、成人した今の僕にとっても全く嘘のない言葉だと思う。僕らはこの地球上で三次元空間を自由に動いているようでいて、広い目で見ればほとんど地上に張り付いて二次元的に動いているだけだ。スカイツリーに登っても、飛行機に乗っても、スカイダイビングをしても、重力は常に容赦なく僕らを縛り付ける。僕らの体は常に、「重力が働くほうが下」という意識から抜け出すことは出来なくて、多少上下に動いたり、地球の反対側に行ったりしながらも基本的には重力に垂直な方向にひたすらウロチョロしている。それは僕にとって、すごく残念なことに思えた。そのまま地球の重力だけに縛られたまま死んでいくのが悔しかった。だから僕は、真の意味での三次元を目指したのだ。上下という感覚すら無く、好き勝手に空中を漂うその肉体的自由に憧れたのだ。

ただ、僕の生まれた時代は少しだけ早かった。この時代に宇宙に行く選択肢は、10年に1度あるかないかの宇宙飛行士選抜試験を奇跡的な確率で通過するか、これまた奇跡的なレベルの大富豪になって宇宙旅行に行くかぐらいだろう。悲観的に見ているわけではないけれど、僕の体が健全なうちに宇宙に行く機会を得る確率は、かなり低い。僕は望むような肉体的自由を得られないまま死んでいくのだろうか。それは、とても残念なことだ。本当に悔しいことだ。

 

でも、だけど、それでも、と思う。

 

ピカソやブラックらが試みたように、僕らは精神的にはもっと多次元であれる。研究をして、本を読んで、短歌を作って、芝居を観て、サンドウィッチマンで笑って、ボクシングをして、友人とくだらない飲み会をして、僕はそのたびに新しい感覚・視点を手に入れる。そうして僕の思考の次元はまた少し上がる。それは0.0001次元ぐらいの差かもしれないけれど、それでも確実にそれまでの自分の思考次元ではたどり着けないような景色を見られるはずなのだ。僕はそうして、できるだけ遠くの景色を見たいと思う。この星にへばりついて一生を終えるやるせなさを抱えながら、せめて精神的には未来人並みの多次元生物でありたい、と思う。それは、この時代に生まれてしまった僕ができるせめてもの抵抗だ。なんとも、我ながらいかついパンクマインドだ。

やっぱり僕は、自分のことにしか興味がないんだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ZOZOTOWNの社長が月旅行をすると聞いたときにはくそー先を越された!と実は密かに拗ねていたのだけれど、実現すればそれはそれできっと刺激的な映像になるだろう、と楽しみでもある。様々な分野のアーティストも同乗するそうだけれど、一体だれを連れて行くんだろうか。しょーもない低次元生物連れていくとか言ったら許さないからな!

 

 

ロジカルロンリーラディカルシンキング

懲りずに短歌を作っている。

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ニュートンの呪縛で月が欠けていき同じ呪いが僕にもかかる

 

 

 

 

 

 

 

「小骨から俺は世界を変えてやる」

人に忘れられたときにアジフライは死ぬ

 

 

 

 

 

 

 

垢抜けぬ少女の垢を垢のまま煮詰めたものにわたしはなりたい

 

 

 

 

 

 

 

不釣り合いなイコールのようなコンセントがひとつ空いててあの人がいない

 

 

 

 

 

 

 

飴色の雨が溶けあうとき僕は皮膚色の皮膚で区切られている

 

 

 

 

 

 

 

あの人の炭素が漂うキッチンの換気扇を回すかためらう

 

 

 

 

 

 

 

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この世のあらゆるものが分子という粒の塊で出来ていると知った時、僕は相当驚いたと思う。特に、自分の体もまたその粒の集合体であると知って、僕はなんとも言えない気持ちになった。それは、怖いとも面白いともつかない、やっぱりなんとも言えない気持ちだった。いや、だって、粒って。大丈夫なのそれ。ちょっと気抜くと腕とか足とかバラバラになってジェンガみたいに崩れちゃうんじゃないの。お湯に浸けたら砂糖みたいに溶けたりするんじゃないの。

そしてその分子もさらに細かく分解すると陽子・電子・中性子の組み合わせで出来ていて、実は水と酸素ではその陽子・電子・中性子の組み合わせ方が変わっただけで、材料は同じだという。おい、なんだそれは。もし水飲んでるときにうっかり陽子と電子が組み変わっちゃって、猛毒とかになったらどうするんだ。朝起きたら突然自分の髪の毛がパスタになってたらどうするんだ。グレゴール・ザムザもびっくりだ。

しかもその陽子・電子・中性子も分解すると素粒子というもっと細かい粒で出来ていて……。はあ。そうですか。参りました。 

 

 

 

科学は精密な実験結果に基づき、いたって論理的に理論を構築する。そんなぐうの音も出させてくれない結論を前にするとき、僕の感情の介在する余地は無くて、なんだかそれは寂しいことのように思えてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

化学の話をしてみる。

人間は酸素を吸って二酸化炭素を吐く。これを化学式で書くと、O2を吸ってCO2を吐き出すということになる。つまり、単純に考えると人間は呼吸することで自分の体内のC(炭素原子)を外に放出していることになる。

さて、人間の一日の呼吸量は19,000リットルぐらいだそうだ。空気の密度は1リットルあたり約1.3グラムなので、人間は一日に19,000×1.3=24,700グラム呼吸をすることになる。そしてこの呼気のうち約3%二酸化炭素なので、その人からは一日あたり24,700×0.03=741グラムの二酸化炭素が吐き出されることになる。これは、炭素原子の数に換算すると約1025乗個になる。つまり、ある人が一日部屋にいた場合、もともとその人の体の一部であった炭素原子は、1025乗個部屋に充満することになる。

1025乗というのはどれだけの量か想像しにくいが、例えば1025乗円の貯金を持っていたとすると、毎日1兆円を使って豪遊しても、貯金を全て使い切るのに274億年かかる。なんじゃそりゃ。例えてみても実感の湧かない、とにかくおびただしい量だ。一日部屋で呼吸をし続けるだけで、そんなおびただしい量の「元自分」の炭素が部屋を飛び回ることになる。

一方、植物は逆に光合成によって二酸化炭素(CO2)を吸って酸素(O2)を吐き出す。つまり空気中の炭素原子を植物の体内に取り込むことになる。だからもし部屋に観葉植物を置いていたりなんかすれば、一年も経つとそいつは相当な量の「元自分」を体内に取り込んでいるはずである。ペットは飼い主に似るというが、植物は物理的に育て主に同化していくのだ。いつか根っこが足になって枕元で添い寝をしてくれるかもしれない。

 

だから、安心してほしい。例えばあなたが部屋で一人っきりでいる時も、あなたの部屋を訪れた「元友人」の、「元恋人」の、「元家族」の炭素原子があなたを取り囲んでいるのだ。だから、全然寂しくはないのだ。

例えばあなたの部屋の植物の一部は、あなたの友人の、恋人の、家族の一部で構成されているのだ。だから、全然寂しくはないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

宇宙の話をしてみる。

これまでの偉人たちの色んな観測事実から、宇宙の始まりはビッグバンという大爆発で生まれたらしいと考えられている。ビッグバン。韓流アイドルではない。さて、世界の始まりがビッグバンだと聞くと、僕らの体を構成する分子もその時に作られたのかと思うかもしれないが、実はそうではない。というのもビッグバンの頃は粒の勢いが良すぎて、陽子・電子がくっついてもすぐにバラバラになってしまうからだ。血気盛んな思春期の若者たちがくっついたり離れたりを繰り返して自然消滅するのと同じようなもん、ではない。

では、僕らを構成する分子が作られたのはいつかというと、その数億年も後、星が生まれてからだ。星の内部にはとっても熱い炉があり、そこで炭素や酸素などの分子が作られる。そうして分子をたくさん作った星はその一生を終える時、ものすごいエネルギーを放出して大爆発を起こす。超新星爆発というやつだ。いや、だから韓流アイドルではない。この超新星爆発によって宇宙空間に分子がばらまかれる。そうやって宇宙のあちこちで起こった爆発でばらまかれた分子のうち、たまたま太陽の付近にあったものが集まって地球が生まれ、そして僕らが生まれた。

つまり、僕らは星の死骸で構成されているのだ。そして僕の上半身と下半身は別の星の死骸かもしれないし、もしかしたらこれを読んでいるあなたと僕を構成する分子たちは、はるか昔のどこかの星の中で一緒にいたのかもしれない。

 

だから、安心してほしい。例えばあなたがどうしようもなく孤独なときも、あなたと同じ星の死骸から生まれた同志がきっとどこかで生活を送っているはずだ。だから、全然寂しくはないのだ。

例えばあなたが愛する人と一体化できなくて悩んでいても、いつかこの太陽系が寿命を終え、膨張する太陽に地球が呑み込まれたときに、同じ星の中で一つになれる。だから、やっぱり全然寂しくはないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大学の四年間は一人暮らしってなんて自由で楽しいんだ!と、一度も寂しいと思ったことなんてなかったが、大学院に進学したぐらいからどうも、「そろそろ一人暮らしとかよくね?」と思うようになってきた。ひとりぼっちってこんなに寂しいもんなのか。いやしかし、この部屋には先週遊びに来たAさんの炭素原子もいるから厳密にはひとりぼっちではないはずだし、なんなら隣の部屋に住んでいる人は同じ星出身かもしれないし、全然寂しくないもんね、と部屋でひとり自分を鼓舞していると余計に悲しくなってきた。しばらく換気して、せめて今日は新鮮な「元誰か」と一緒に寝ようかな。

ありふれる殺人的平等感

最近は思ったことがまとまった思考にならず、短いことばの欠片としてぽこっと現れることが多い。そういうときに出てくることばの欠片は大体5~7文字に収まることが多いので短歌という形式にまとめることで保存するようにしている。

 

というわけで、今回は最近作った短歌をいくつか並べてみる。

はい、ただそれだけの回です。

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カフェラテで恋しく揺れる襟足のカールは小人の仕業ではない

 

 

 

 

 

 

 

一人称がやや崩れたらあの人の耳の形を思い出せなくなった

 

 

 

 

 

 

 

ツナ缶をわずかに一つ食う時もバニラ、バニラは高収入だ

 

 

 

 

 

 

 

階段で息が切れたらぼくはもう圧倒的にコフレドールになれない

 

 

 

 

 

 

 

 

産んだ子の髪を掴んで投げるようで孕むの孕という字の正しさ

 

 

 

 

 

 

 

JKとしての人生を2時間観てもぼくの人生は腹がすく

 

 

 

 

 

 

 

寂寥をじゃくびゅうと読む

びゅう、と風

渋谷の風は誰にも当たらぬ

 

 

 

 

 

 

 

あなたとは他人でいるがカツカレーでお待ちの方として夫婦にはなった

 

 

 

 

 

 

 

脚フェチの彼の親父も脚フェチで

そうだ、地球は3番の星

 

 

 

 

 

 

 

「襟足の寝癖をなぞる指が好き」

百億年後、ぼくは孤独だ

 

 

 

 

 

 

 

無機質の彼にも朝が降るごとく、美人ナースはぼくのものでない

 

 

 

 

 

 

 

「あなたにはあなたのように生きてほしい」の、ハ行とサ行は息しか吐かぬ

 

 

 

 

 

 

 

救急車が立ち往生しマッキーが今半分ほど染み付いたところ

 

 

 

 

 

 

 

街灯に体半分照らされてファミマのチキン安らかに在り

 

 

 

 

 

 

 

さようならを言いたくなくてバイバイと言ったらさようならと言われた

 

 

 

 

 

 

 

しおりにしたこの電話相談カードで救われた人をぼくは知らない

 

 

 

 

 

 

 

みながみなみながらみないふりをするそのえねるぎーででんしゃはうごく

 

 

 

 

 

 

 

中指をみじん切りする

血で染まる

腕軽くなる

ぼくここにいる

 

 

 

 

 

 

 

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 だから、これだけって言ったじゃないか。

みなさま、グロがお好きなようで

 

 

人間生まれた時はなんかガサガサガサガサして、これじゃ暮らせないから。ガサガサって表現はおかしいけどね。曖昧模糊としてるでしょ。子供の頃ってえのは、白鳥がお天道様咥えてくるような絵描くでしょ。ウケようとして描いてんじゃねえんだ、あれ。それじゃあ困るからって白鳥が鳥類であってこっちが宇宙であるって分けて。これを知性って言うとするか。それが疲れたときにボケるわけよ。ね。だからこれ(人生)がいかに苦しいか。夢でバランス取ったり幻覚剤求めたりね、それからまたイリュージョン、手品なんていうのを見て、酒飲んだりして、常にこのグロテスクさから逃げようとしてるんですよ。だから、ボケは当たり前なんですよ。ボケて悪くないんですよ。恍惚としてんですから。迷惑するのは周りだけなんですから、こんなもん。*1

 

 

「グロテスク」っていうと普通は「気持ち悪い、残酷な」という意味を指すけれども、もともとは古代ローマの洞窟にあった、植物やら動物やら人間やらが混ざり合って描かれた壁画のことを指す言葉だったらしい。まあ要は「ごちゃごちゃして不自然なもの」ってところだろうか。なるほど、そういう意味で言えば人間の生活っていうのはたしかにグロテスクだなあ、と思う。なんだかよく分からんまま生まれて、気付いたら言語なるものを話していて、宿題はしなくてはいけません、適度にスポーツもせねばなりません、大阪に生まれたという理由だけで阪神タイガースを応援せねばなりません、子供は子供らしくしなくてはいけません、大人なんだから大人らしくしなくてはいけません、この紙切れはお金というものです、そのお金を得るために働かなくてはなりません、異性とは「結婚」という契約を結ばねばなりません、掃除洗濯料理ゴミ出しは欠かさず行わなければなりません、、、。

20年以上生きてもこのグロテスクさ、不自然さにはなかなか慣れなくて、まあ普通に生活することほど難しいものは無いなあ、と思う。例えば料理なんてのも、基本的に「なんとなく油を引いてみる」「生じゃ硬いから焼いておく」「味がしないから塩コショウをかける」という自然体得的な手札で勝負するので、料理好きの人が彩りや栄養バランスを考え、よく分からん調味料をたくさん混ぜて、皿をいちいち分けてきれいに盛り付けているのなんかを見ると、よくもまああんな不自然なことを楽しそうにやるもんだなあ、と本当に感心してしまう。先日も元劇団同期の友人と話したのだが、なんと彼女は毎朝必ず家を出る2時間前に起き、朝ごはんを作りながら化粧と身支度を済ませて大学に通う、という生活を3年間続けているらしい。家を出る2時間前に目覚めた日なんかには「しまった、あと1時間45分は寝られるのにもったいない」と思っちゃうのが自然だと思うんだけどなあ。

 

 

 

 

そんな彼女のブログの投稿には、美しい写真が並ぶ。きれいな色合いの具だくさんミネストローネや牡蠣のアヒージョ、そして大学への通学路で撮ったという、黄金色の紅葉の奥に見える秋晴れの青空。そこにはこんな言葉が添えられていた。 

今日は時間がなくて

「わー遅刻だー!!!」

って走りながら登校したんだけど、

こんな空見ながら走って

生きてるわー!

ってなんか思いました(笑)。*2

あれは小学生の時だったかな。細かいことは覚えていないけれどもその日は多分夏で、もしかしたら夏休みの学校のプール開きの帰りか、はたまたみんなで野球をした後の帰り道だったかもしれない。僕の住んでいた社宅の前にはかなり急な坂道があって、ブレーキもかけずに自転車でその坂を一気に下ろうというその瞬間にふっと顔を上げると目の前には突き抜けるような青空が広がっていて、ほんの少しだけ時間が止まったような感覚に襲われたのを覚えている。その瞬間に僕は彼女と同じように

「うおお、生きてるぞー!」

と心の中で叫んだのだった。

陳腐な話だが、137億年という宇宙の歴史を1年に圧縮すると僕の23年の人生はたったの0.053秒だそうだ。あっというまどころか、「あっ」と言う間すら無い。はたまた地球をビー玉のサイズに圧縮すると、東京スカイツリー0.00075 mmで、僕の身長はウイルスにも満たないという。このとき太陽の大きさは大玉転がしの玉ぐらいあるらしい。自然というものは、時間軸上にも空間軸上にも圧倒的な広がりを持っていて、その一端を垣間見るときそのあまりの迫力に僕らは四次元的に足を止められてしまう。そうして立ち止まるとき、こんなにも不自然な生活を送っている僕もまた、自然の一部に取り込まれたような気分になる。そのスケールの中で僕の命はあまりに小さくて、儚くて、だからこそ、不自然なこの生命はやけに浮き彫りになって、輝いて見えるのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高校3年生の夏、数年ぶりに父方の祖母の家に帰省した。そのとき祖母は癌の末期であった。恐らく次の正月まではもう持たないだろうと言われていて、生きている祖母に会うのはこれが最後だろうとみんな分かっている状態だった。そしてそのことを、祖母だけが知らなかった。それはとても不自然だった。「病気が治ったらまた会おうね」という僕の言葉に祖母は力なくうなづいた。祖母はもうボケていて、僕の名前も覚えているか分からなかったけれど、その反応はとても自然で、僕の言葉はとても不自然だった。来る途中の新大阪駅で祖母のために小さな招き猫の置物を買った。「僕はお盆が終わったら帰るけど、この招き猫はずっとここにいるからね」と言って祖母の枕元に置いてあげた。ぐったりとした祖母の前では招き猫の笑顔は過剰なぐらい生き生きとして見えて、その構図はやはり不自然だった。祖母が亡くなったあとも、こいつは寸分も変わらぬ表情で笑い続けるのだな、と思うとお前だけ生きていても仕方ないんだぞ、と空しくなった。部屋全体の時間が止まったように感じられて、壁にかけてある写真も、祖母の得意だったちぎり絵も、どこか消え入りそうな気配を放っていた。祖母の家自体が、もうすぐその命を終えようとしているような、そんな感じだった。散歩に出た。鹿児島のど田舎の山は、少し奥まで入ると本当に何の音もしなくなる。蛇が出そうな草むらに恐る恐る入って立ち止まると、風がざーっと抜ける音だけがして、空はよく晴れていて、自然はあまりに自然で、僕の置かれている状況はあまりに不自然だった。

自然に帰する時、人は不自然を脱することができる。祖母はあの時、自然だった。病床に臥しているときには既に、グロテスクな生命体の僕とはまるで違う世界を生きていたのかもしれない。お葬式の時、父も叔父もいとこもみんなたくさん涙を流した。なぜだか僕はあまり涙を流さなかった。祖母はとても自然な姿だった。だから、その帰結が悲しいことだとは、あまり思えなかった。お葬式が終わった後に出された食事の中に、不自然なぐらい動物の肉が入っていなかったことの方が、よほど悲しいことであるような気がしたのだった。

 みんな、グロテスクが好きだなあ。僕はどうも好きになれない。好きになりたいとは思わないけれど、ちょっとだけ、羨ましいなあ。

 

 

 

 

 

 

 

12月はどうも苦手である。師走というだけあってかどこか慌ただしい雰囲気に包まれるし、街のあちこちでやたらにセンチメントを強いる音楽ばかり流れていて脳が疲れてしまう。最寄りの駅前にもいつのまにか巨大なクリスマスツリーが出現して、いよいよ嫌な季節がやってきたなあと思う。ツリーには青を基調としたLEDのイルミネーションが巻き付けられていて、インスタ映えを糧とするインスタ蝿たちが群がってたくさん写真を撮っていた。あんな色付きの電磁波なんか見なくたって、冬の夜空に浮かぶ自然光はこんなにきれいなんだけどなあ、と見上げた空に向かってついたため息はいつもよりやけに白いような気がして、んー、なんだか不自然だなあ、と思った。

 

 

*1:「落語のピン」1993.04.07放送分、立川談志『鮫講釈』のマクラの一説。

https://www.youtube.com/watch?v=JUNL0mgpuCs

*2:『生きてるわー!』

https://ameblo.jp/sunflowermegane/entry-12329072157.html