ハルに風邪ひいた

駆け出し宇宙工学者が気が向いたときに書く方のブログ

ジュンのキャンドル、キャンドルのジュン

 

今日の僕は何でもできる。

 

 

アラームの音もなしで目を覚ました僕は、1秒前まで見ていた夢の余韻をひきずることも無くそう確信した。時計は昼の12時を指そうとしている。しまった、寝すぎた、と思ったけれどうちの時計は20分早いのだったと思い出してまだ11時35分だと気づく。ただ起きただけで20分も得をした。今日の僕は何でもできる。

頼まれていた仕事を消化するために家を出る。適当に半袖シャツ1枚で外に出ると、気温は30℃近くて、暑すぎず寒すぎずちょうど良かった。5月は毎日長袖を着ていたのに今日に限ってなぜだか的確に半袖を選んだ。やっぱり僕は何でもできる。

やるべき仕事を滞りなくこなす。僕は何でもできるからすぐに仕事は終わった。

自転車に乗り込むとなんだか急にスタバに行きたくなった。そういえばずっと喉が渇いていたことに気付く。大通り沿いに悠然と看板を掲げるスタバ。周りはコンクリートだらけなのにこの一角だけおしゃれな森の小屋みたいになっているスタバ。何でもできる今日の僕に相応しい休憩スポットのはずだ。

横文字の横文字まみれフラペチーノみたいなやつを注文する。「トールサイズの横文字の横文字まみれフラペチーノでございますね。」どういう味なのか想像がつかないけれど僕は全知全能のフリをしてポソリとうなづく。なにしろ今日の僕は何でもできるのだ。MacBookに思考の全てを支配された全知全能のスタバドヤラーたちになめられてはならない。

青空を見たくて窓側の席に座ると、「まぶしいので閉めちゃいますね」と店員さんにブラインドを降ろされた。雲一つない大きな大きな今日の空は、ブラインドの隙間わずか数ミリの幅に細長く切り刻まれてしまった。

今日の僕は何でもできる。だから、きっと今日の僕の運勢は最高だ。ヤフー12星座占いを開く。

 

おうし座 総合運60点

ふと、繰り返しの日常から離れたくなる日です。具体的な不満はなくても、現実から離れて行動したくなりそうです。

 

なんでこんなにも僕のことを知っているんだろう。太陽が大体おうし座の方向に見える時期にこの世に生まれた、という雑な理由だけでどうしてこんなにも僕の行動を型に埋め込んでしまうんだろう。今日が所詮60点の日だなんて言われなくても分かっているのに、なんでわざわざそれを僕に突き付けてくるんだろう。

 

開運のおまじない

危険のないようにして、キャンドルなどの炎をただ、見つめて。落ち着きます。

 

うるせえ!甘い匂いのするろうそくなんて死ぬまで絶対買わないからな!死ぬまでキャンドルを呪い続け、それで僕が死んだら葬式の時にはあてつけのようにキャンドルを焚きまくってやる。お坊さんの法衣にべったりラベンターの香りをつけて、奥さんにキャバクラ通いを疑われるように仕向けてやる。なんなら火葬もキャンドルでやってやる。最高に甘い匂いのする生焼けの死体になって、通りすがりの人におしゃれな焼き肉屋ができたんだと勘違いさせてやる。

 

星占いなんか嫌いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

昔の昔の大昔、地面は平らで天はドームのように世界を覆っていると本気で思われていた頃、星占いは地上の吉凶を予測する重要な儀式だった。日食や月食が起きると人が死ぬ。生まれた時の月や惑星の位置関係で人の運命が決まる。そんなことを本気で信じていた。天は畏れの対象でありながら、実体があった。だから、畏れを抱きながらも人間と天はつながっていられた。

 

昔の昔のそんなに昔でもない昔、幼稚園児の僕は車に乗りながら昼間の月を眺めていた。父がアクセルをぶおーんと踏み込むと建物はビュンビュン通り過ぎて行くのに、月はいつまでも僕らの車と同じスピードで走ってくれた。渋滞で車が止まると月も律儀に止まって僕らが走り出すのを待ってくれた。月は優しかった。紳士だった。身近で歳の離れた寡黙なおじさんのようだった。僕と月はつながっていた。僕と月はつながっていられた。

 

 

 

 

 

 

 

ソフトウェアが計算の終了を知らせる。1999年5月25日20時47分49秒、僕がまだ5歳だった年の現在時刻を入力すると、NASAの公開データからその日時での月の位置と速度が読み出される。僕が計算した宇宙機の軌道はその時刻に狂いなく月に到達し、月の重力で正確に方向を曲げられてまた狂いなく地球に戻ってきた。今日の僕は何でもできる。月はコンピューター上で僕の指示通りに動いていて、僕は月を配下に従えたような気分になる。

 

配下に従えると、月は優しくなくなってしまった。その昔一緒に走ってくれたのは、僕の勘違いだったことも知った。ただ月は遠くにあるだけだった。遠くにあって、僕らの車のスピードとは一切関係なくゆっくり公転しているだけだった。彼はもう紳士なおじさんではない。天は世界を覆うドームではない。地面は平らではない。僕がいるのは太陽系第3の惑星で、球形をしていて、衛星をひとつ持っている。何でもできる今日の僕なんかまるでこの世に存在すらしていないかのように、その衛星は黙々と地球の周りをまわっている。

僕と月はもう二度とつながれなくなってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あっという間に陽が暮れた。何でもできる僕は何にもせずに一日を終えようとしている。

レッドブルを買いに行く。ついでに夜食も買おう。明日の朝ごはんも買おう。蒸気の出るアイマスクも買おう。キャンドルだけは、死んでも買わない。

 

 

かげろうと星の夜

星が生き生きと瞬くのは、地球に大気があるからだ。大気に温度のムラがあるからだ。温度のムラで光が揺らぐからだ。

だから、躍動する星たちを眺めるとき、本当に躍動しているのは地球の方だ。地球に住む僕の方だ。

僕が見ているのは、僕だ。

 

スティーヴン・スピルバーグの『A.I.』を見た。面白くなかった。綺麗な映像だった。展開にも、セリフにも、興奮しなかった。子役がすごかった。深みのないキャラクターが多かった。面白くない映画を面白くないと言うのは面白くない。

面白くないのはスピルバーグなのか、僕なのか。

 

松本人志の『ドキュメンタル シーズン7』を見た。面白くなかった。ドキュメンタルはいつも楽しみにしている。保身のために空気を壊し続ける人は好きじゃない。笑いを堪えている人を見るとニヤニヤしてしまう。ザブングルの加藤が面白くなかった。面白くないものを見ている時の僕の思考は面白くない。

面白くないのはザブングル加藤なのか、僕なのか。

 

ファミレスでトンテキを頼んだ。隣の席のおじさんがキレていた。40歳ぐらいのおじさんの正面には気弱そうなお爺さんとお婆さんが座っていた。トンテキが来た。メニューの写真と全然違っていて驚く。ボケているお爺さんに向かっておじさんが赤ちゃん言葉で話しかけている。申し訳なさそうに食べているお婆さんにおじさんが罵声を浴びせている。トンテキの味が無い。イヤホンを付ける。トンテキに集中する。テーブルに前のめりになったおじさんが視界に入る。お爺さんを指さしている。イヤホン越しにおじさんの声が聞こえる。トンテキに集中する。トンテキがメニューの写真と全然違う。「婆さん、いつまで食ってんだよ。」お婆さんはうつむいたままキャベツを食べる。「お爺ちゃん、自分で食べるって言ったんだから責任もってちゃんと食べましょうね。」お爺さんはうめき声をあげる。トンテキに集中する。トンテキに集中できない。おじさんが席を立って店を出た。お爺さんとお婆さんがゆっくりと手を取り合って立ち上がる。何か声をかけなきゃと思う。何か声をかけなきゃと思っていたけど、トンテキがメニューの写真と全然違う。トンテキがメニューの写真と全然違うから、何も声をかけられなかった。

怒っているのはおじさんなのか、僕なのか。

悲しいのはお爺さんなのか、お婆さんなのか、僕なのか。

 

 

 

 

 

 

 

宇宙から見る星空は死んでいる。大気が無いので星の光は一切歪まず減衰もされず、揺らぐことなく目に届く。だから、無限の闇に無数の光の粒がべったりと貼りつけられているように見える。そんな星空を見てみたいと思う。死んだ星空と、生きている僕。その時僕は初めて景色をただ景色として見ることができるのだ。純粋に景色の美しさを味わえるのだ。僕と世界とを切り離すことができるのだ。

死んでいるのは星空で、僕は間違いなく生きているのだ。

 

 

 

 

 

世の中はゴールデンウィークだ。ゴールデンだ。キラキラだ。

輝いているのは世の中なのか、僕なのか。

僕は揺らいでいる。輝いているかは分からないけれど、ただひたむきに揺らいでいる。

 

 

ドロップと桜のマーチ

まだまだまだまだ懲りずに短歌を作っている。

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太陽と地球と月と絞殺と刺殺とフライドチキンの宇宙

 

 

 

 

 

 

 

 

シルヴェスタ―・住宅ローン

ベネディクト・缶バッジ

ミラ・ジョボジョボビッチ

 

 

 

 

 

 

 

 

たのしいね!たのしいね!たの、たのしいね!たのしいね!たの、たのし、たのしいね!

 

 

 

 

 

 

 

 

まだ熱は後部座席にある

冬は

ギャグマンガみたいな雲だ

父がいた

 

 

 

 

 

 

 

 

求めても求められない恋がある同じ地平に東京がある

 

 

 

 

 

 

 

 

えびかにの手足をもいでしあわせとふしあわせとは同じ生き物

 

 

 

 

 

 

 

 

喉元に刺さったままの夜がある

万引きペプシの泡の苦さで

 

 

 

 

 

 

 

 

さようとはいかようですかいかですかたこですかまた別れのにおい

 

 

 

 

 

 

 

 

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幼稚園から小学校へ上がるタイミングで、父親の転勤で福岡から兵庫に引っ越すことになった。やけに改まった様子の両親からそのことを告げられた夜、当時小学四年生だった兄はとても悲しんでいた気がするけれど、僕はというと「ふーん、そうなんだ」という感じだった気がする。なるほど遠くに引っ越すのね、ということは分かったけれどイマイチそれがどういうことなのか実感がなかったのだ。

引っ越しの当日。幼稚園でいちばん仲の良かった友達が見送りに来てくれた。いつも元気で笑顔の絶えない彼の表情はすこしぎこちなかった。それから多分覚えたての別れの言葉を交わして、多分握手なんかをして、多分父が「そろそろ行こうか」と言って、車に乗り込んで、それから僕はえらい泣いた。友達もえらい泣いた。彼が泣くのを見たのは初めてだった。それを見てまたえらい泣いた。びゃーびゃー泣いた。泣く理由なんかよく分からなかったけれど、ただただ悲しくて、お互いの表情が遠く見えなくなったあとも僕らは共鳴し合うように泣き続けた。

 

僕が生まれて初めて味わった別れの体験だった。18年前のちょうど今頃のことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日、教授の運転する車で日帰り仙台出張へ行ってきた。生まれて24年、実は東北へ行ったことが一度もなくて、雪国には勝手に神聖なイメージを膨らませていたのだが、人の運転する車で知らぬうちに個人的最北端ラインを突破してしまって、おまけに雪なんか全く積もっていないわりに無駄に寒くて、少しも感慨は湧かなかった。律儀に貞操を守り続けて、「初夜は特別な日にするの!」なんて言いながら、酔った勢いであっさり初体験してしまったような感じだろうか。違うか。結局初の東北進出で口にしたのはパーキングエリアの大して美味しくない鮎の塩焼きと、食堂のちょっと美味しいカツカレーだけで、またドタバタと車で帰路へ。教授のやや荒い運転に心配になりながら、ぼーっと窓の外を眺める。

車窓越しに知らない街の知らない家の明かりが次々と通り過ぎていく。あの家の明かりひとつひとつに少なくとも一人の人間が住んでいて、僕はそんな名も知らぬ無数の彼らの生活になんとなく思いを馳せていくけれど、彼らは僕の存在なんかには全く気付いていなくて、そんな小さなすれ違いのような出会いと別れを延々と繰り返すうちになんだか妙な気持ちになってしまう。それは悲しいに近いけれど、怖いとも寂しいともつかない微妙なざわざわだったりする。そしてそれはまた不思議なことに、やけに魅力的であったりもするのだ。

かれこれ道中の5時間ずっと窓の外を眺めていたような気がする。夜の街には、そんな不思議な魅力がある。

 

 

 

 

 

宇宙にも、同じ構造がある。夜空には無数の光が輝いているけれど、あの肉眼で見えている光のひとつひとつは恒星といって、ぼくらの太陽系でいう太陽だけしか見えていない。もっと言うと、その恒星だと思っている光はたまに銀河だったりして、そうするとその光ひとつは実は一兆個ぐらいの恒星の塊だったりする。さらに、太陽系に水星、金星、地球、火星……があるように、恒星の周りには肉眼では見えない惑星がいくつか存在したりもする。だから、あのおびただしい量の光のさらに何倍もの星が存在していて、僕は名も知らぬ無数の星たちや、もしかしたらいるかもしれない無数の宇宙人たちになんとなく思いを馳せるけれども、残念ながら現状の技術では太陽系外の惑星に行くことや、宇宙人に会いに行くことは不可能で、僕の思いは届くことなく少しずつ減衰しながら夜空に溶けていく。それはやはり小さな別れの連続のようで、悲しくて、怖くて、寂しくて、不思議なことに、魅力的なのだ。

宇宙とのそんな微妙な関係を、僕はなぜだか愛してしまっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

別れの意味は、僕の中で少しずつ変わってきたように思う。もうあの頃のようにびゃーびゃー泣くような別れはなくなってしまって、なんだか自分が随分薄情な人間になってしまったような気もする。けれども今の僕には別れをただ悲しいものととらえるのではなくて、もう少し複雑で、曖昧で、魅力的なものだと受け入れることができる。

 

今年も、たくさんの別れを経験した。小さな別れや、しばしの別れ、多分大きいであろう別れ。思いが通じる別れもあれば、気楽な別れ、すれ違いのような別れもあった。

別れのにおいはいつも、知らぬ間に風に染み込んでいて、気がつくと鼻腔いっぱいに充満している。この時期になるとみんな揃ってマスクを着けだすのはそのせいなんじゃないかと思う。新しい空気を吸い込む前に、まずは吐けるだけ息を吐いて、意味ある呼吸を小さく繰り返して、ゆっくりと息を整えようと思う。春の空気はもうすぐそこまで来ている。

 

木漏れ日がところてん

夏ごろに作った短歌を中心にまとめた。ただそれだけの回です。

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在り方を問う後頭部に突き刺さるレクイエムのごときYMCA

 

 

 

 

 

 

 

(無常観-無常感)×0.1のような明け方5時の青ねぎ

 

 

 

 

 

 

 

毒色のサーティーワンを舐めたあと手を繋ぐより繋がれたい昼

 

 

 

 

 

 

 

iPhoneの宵、酔い、余韻の予測

今、君と朝まで呑みたいと思う

 

 

 

 

 

 

 

何者かの何かのための軒下で監視カメラと分け合う雨音

 

 

 

 

 

 

 

生爪の裏の肉片をすりつぶし「人生は長い暇つぶし!」なう

 

 

 

 

 

 

 

名も知らぬ町に名がありその町で名もなき僕のためだけのローソン

 

 

 

 

 

 

 

ブレスケアのbreath taking、はっとして、ほっとして、バス、君を連れ来る

 

 

 

 

 

 

 

火葬場にちいちゃんの世界がありつまり人はいつでも幸せであれる

 

 

 

 

 

 

 

大丈夫の真ん中の人大丈夫?の真ん中の人大丈夫だよね?

 

 

 

 

 

 

 

うたかたとほうまつを足して2で割ってあわよくば夏の答えを知りたい

 

 

 

 

 

 

 

砂時計内の砂A、砂Bが出会うようにして今日も君と朝

 

 

 

 

 

 

 

変拍子的三三七で頭かく

言えない理由を聞いているのに

 

 

 

 

 

 

 

潰れれば赤い塊になるきみのツンデレひとつ愛しくて草

 

 

 

 

 

 

レバニラを上手に作りたいというデジャブ人間であるのは束の間

 

 

 

 

 

 

 

READMEREADYOU

夜、この街の空気はぼくらを邪魔せずにある

 

 

 

 

 

 

満月に少し足りない夜だけは足りない人の足りなさが好き

 

 

 

 

 

 

 

木漏れ日がところてんきみの弾力がきみの弾力が、きみ、きみのための夏

 

 

 

 

 

 

 

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冬はきらいだ!

 

 

キューブでありるったかもだろうんだね

まだまだ懲りずに短歌を作っている。

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パチキューン、光を食べる音

またも写ルンですのあまりにも早い死

 

 

 

 

 

 

 

死ぬことを覚える前に生きることを死ぬほど覚えよ、たまごボーロマン

 

 

 

 

 

 

 

きの音のくうきの音がすききりんすきすきききききききりんのし

 

 

 

 

 

 

1ホールのケーキを買う意図アイプチを貼る意図そうめんが揖保乃糸の意図

 

 

 

 

 

 

 

人の意図人の意図人の意図人の意図人の意図人の意図人の意図人の意図ひ

 

 

 

 

 

 

 

性欲のリッシンベンで火を灯すふたりの夜に嘘が無いこと

 

 

 

 

 

 

 

微熱だよ、いや熱だから、微熱だよ、いや熱だって、という名の詩人たち

 

 

 

 

 

 

 

皆さまの小さな勇気が子供らの未来を奪う、がんばれ日本!

 

 

 

 

 

 

 

死ぬまでに死ぬほど遠くに行こうこの星の重力はたかが三次元

 

 

 

 

 

 

 

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美術館が好きだ。

美術が好きだ、とは言わないのは絵画や写真自体にさほど執着があるわけではないからだ。絵は棒人間専門だし、写真は写ルンですでちょっとしたエモノスタルジック写真が撮れればそれでもう満足してしまう。だから、歴史的に価値の高い作品とやらを観ても何がすごいのかいまだに説明できないし、セザンヌだったかスザンヌだったか毎度忘れてしまう(モネとマネの違いはようやく分かり始めた)。そんなわけで、美術館に行っても作品を純粋に鑑賞している時間は実は半分も無かったりする。では一体何をしているかというと、ほとんどの時間は作品を観ながら別の考え事をしているか、何も考えずぼーっとしているか、手を繋ぎながらわちゃわちゃ鑑賞しているカップルの人間観察をしているかのどれかだ(彼氏が彼女の前でドヤ顔をしてたりなんかすると余計にガン見してしまう)。

おい、そんなことなら別に美術館なんか行かずに一人でやればいいじゃないか、と言われそうだが、それは、そうでもないのだ。芸術家が魂をこめて生み出した作品たちは、それはそれは途轍もないエネルギーを秘めていて、そのエネルギーを一身に浴びる間、僕の体が、脳が、わずかに変化する。進化すると言ってもいい。無理やり進化させられてしまうと言ってもいい。そうして進化させられた体と脳は、普段の僕では考えもつかないようなアイディアや、言葉を導き出すことがある。美術館という凄まじいエネルギーを持つ空間でのそうした体験を、僕は愛しているのだと思う。いくら価値のある作品でも、自分の身体や思考に影響を与えないものはどうでもいいのだ。結局僕は、自分のことにしか興味がないんだと思う。

 

 

 

 

フィリップス・コレクション展を観てきた。アメリカのダンカン・フィリップスさんが90年代に熱心に集めた作品群の展覧会で、ドラクロワシスレークールベ、モネ、ドガマティスゴッホピカソなどなど教科書でお馴染みの名だたる巨匠たちの絵が一堂に集められており、なんとも贅沢な空間に仕上がっていた。相変わらずふらふらと考え事をしたりぼーっとしたりしながら見ていたのだけれど、ふと思う。

ピカソやばくね?

この並びで観ていくと、明らかにこいつだけ異質である。いやだって、なんだあれ。やたらカクカクした馬と牛が、ありえない姿勢で頭とお尻を同時にこちらに向けている*1。もう体どないなっとんねん。一体どの角度から、どんな瞬間を切り取ったものなのか。というか本当に牛なのかも怪しいレベルだ。これがいわゆる「キュビスム」という画法だそうで、ある時期に一大ムーブメントとなって流行したそうだ。なるほど、巨匠さんとやらが考えることは僕みたいな一般人チンパンジーには理解できないってことね、はいはい、と半分拗ねながら観ていたが、同じくキュビスム創始者ジョルジュ・ブラックの作品に付いていた解説が目に留まる。

 

本作品においてブラックは、(中略)傾斜したテーブルの上のモティーフを複数の視点から同時に捉えている。*2

 

ああ、多次元になりたかったのか、と僕は勝手に納得してしまう。

たとえば僕らが生活している三次元の世界は二次元平面の世界が空間的に無数に重なってできたものだと考えると、僕らが両目で世界を見ている瞬間は常にその中から片目1枚ずつ、計2枚の平面映像を選んでそれらを重ね合わせて見ていることになる。ならばもっと多次元の世界でたくさんの目玉をつけて生活している未来人or宇宙人がいたとしたら、彼らは僕らの住む三次元世界が空間的にも時間的にも無数に重なってできた世界の中で、複数の視点の、かつ複数の時点の、三次元の映像を「同時に」見ることができるはずだ(映画『インターステラー』や『メッセージ』を観た人には分かってもらえるだろうか)。思うに、ピカソたちはそういう「視点」を描いたのではないか。そういう多次元の世界での「一瞬」を二次元の画面に投影してみせたのではないか。そう思うと、なんと合理的な手法だろう、と納得してしまったのだ。それは僕らのこの三次元世界のどうしようもない肉体限界を超えるための、極めて合理的で、知性的な試みなんじゃないか。

もちろんキュビスムの正しい解釈を知らないのでこれは勝手な妄想だけれども、僕にはどうもそれで、目の前の巨匠くんたち一同に親近感が湧いてしまった。たしかにそういう感覚、僕にもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「多次元になりたいんだよね」

ある飲み会の後、町田駅の連絡通路を歩いている時、酔っていた(自分に酔っていた)僕は後輩にこんなことを口走った。なんじゃそりゃ。キアヌ・リーブスかお前は。後輩の反応をあんまり覚えていないけれど、若干引いていた可能性は高い。

ただ字面の何とも言えぬイタさはさておき、素面の状態の今でもこのセリフは僕にとっては全く嘘のない言葉だな、と思う。僕は、多次元になりたいのだ。

 

幼い頃、少なくとも小学校低学年あたりには、僕はなぜか宇宙飛行士になりたかった。しかし、いつなりたいと思い始めたのか、なぜなりたいと思ったのかはよく分からない。「子供の頃ニュースで見た若田光一さんの姿がかっこよくて!」というようなありがちな記憶も特に思い当たらない。ただ当時からしっかりと感じていたのは、「宇宙はこんなにあり得ないほど広いのに、なんでこんな地上でチョロチョロ動いてるだけで一生を終えなきゃいけないんだ!」というどうしようもない不満である。我ながらいかついパンクマインドだ。でもこれもやはり、成人した今の僕にとっても全く嘘のない言葉だと思う。僕らはこの地球上で三次元空間を自由に動いているようでいて、広い目で見ればほとんど地上に張り付いて二次元的に動いているだけだ。スカイツリーに登っても、飛行機に乗っても、スカイダイビングをしても、重力は常に容赦なく僕らを縛り付ける。僕らの体は常に、「重力が働くほうが下」という意識から抜け出すことは出来なくて、多少上下に動いたり、地球の反対側に行ったりしながらも基本的には重力に垂直な方向にひたすらウロチョロしている。それは僕にとって、すごく残念なことに思えた。そのまま地球の重力だけに縛られたまま死んでいくのが悔しかった。だから僕は、真の意味での三次元を目指したのだ。上下という感覚すら無く、好き勝手に空中を漂うその肉体的自由に憧れたのだ。

ただ、僕の生まれた時代は少しだけ早かった。この時代に宇宙に行く選択肢は、10年に1度あるかないかの宇宙飛行士選抜試験を奇跡的な確率で通過するか、これまた奇跡的なレベルの大富豪になって宇宙旅行に行くかぐらいだろう。悲観的に見ているわけではないけれど、僕の体が健全なうちに宇宙に行く機会を得る確率は、かなり低い。僕は望むような肉体的自由を得られないまま死んでいくのだろうか。それは、とても残念なことだ。本当に悔しいことだ。

 

でも、だけど、それでも、と思う。

 

ピカソやブラックらが試みたように、僕らは精神的にはもっと多次元であれる。研究をして、本を読んで、短歌を作って、芝居を観て、サンドウィッチマンで笑って、ボクシングをして、友人とくだらない飲み会をして、僕はそのたびに新しい感覚・視点を手に入れる。そうして僕の思考の次元はまた少し上がる。それは0.0001次元ぐらいの差かもしれないけれど、それでも確実にそれまでの自分の思考次元ではたどり着けないような景色を見られるはずなのだ。僕はそうして、できるだけ遠くの景色を見たいと思う。この星にへばりついて一生を終えるやるせなさを抱えながら、せめて精神的には未来人並みの多次元生物でありたい、と思う。それは、この時代に生まれてしまった僕ができるせめてもの抵抗だ。なんとも、我ながらいかついパンクマインドだ。

やっぱり僕は、自分のことにしか興味がないんだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ZOZOTOWNの社長が月旅行をすると聞いたときにはくそー先を越された!と実は密かに拗ねていたのだけれど、実現すればそれはそれできっと刺激的な映像になるだろう、と楽しみでもある。様々な分野のアーティストも同乗するそうだけれど、一体だれを連れて行くんだろうか。しょーもない低次元生物連れていくとか言ったら許さないからな!