たとえば兄が死んだら

風邪を引いている。症状自体は大したことないのだが、これが精神的には結構くるものだ。まず、喉の痛みが絶妙に不快で、じわじわと、しかし着実に精神的攻撃を仕掛けてくる。ちょうど耳元で虫の羽音がブンブンするぐらいの不快感を連続的に与えてくるもんだから、一日中蓄積すると相当きつい。さらに、安静にしていようと思って昼間から寝ていると陽に当たる時間が短くなるもんだから気持ちは余計に鬱屈としてくるし、そもそも喉の痛みが気になって眠りは浅くなるし、たとえ眠れたとしても風邪の時はだいたい嫌な夢を見るから寝起きが凄まじく悪い(友達と大喧嘩してそいつに指名手配され、町中を逃げ回るという夢はなかなかつらかった)。そして、後回しにした設計課題のプレッシャーが追い打ちをかけてくる。気づけば二日後に設計試問だ。ああ、もう、全部風邪のせいだ。全部風邪のせいだー!

 

 

幼い頃、風邪を引いたときに決まって見る夢があった。自分が布団の上で冷凍状態のようになっていて、その横たわっている自分を外から眺め続ける夢。オレンジの豆電球だけをつけた薄暗い部屋で、ただ自分を眺め続ける。夢を見ている時間自体は1分も無かったかもしれないが、なぜだか何百年も何千年もずっとそのままの状態でいる気がしてきて、それは僕にとってたまらなく怖い夢だった。正確に覚えていないが、初めて見たのは幼稚園ぐらいの頃だったと思う。もちろん当時は言語化などできておらず、ただその無限のような孤独感に対しての恐怖をなんとなく抱いていただけだったが、今思えば僕が自分の死というものを意識し始めたのはその時だったと思う。

 

 

小学校に上がるときに家族で福岡から兵庫に引っ越したのだが、その数年後に幼稚園の頃の友人が兵庫に遊びに来て、一緒にUSJに行ったことがあった(当時USJができたばかりの頃だった)。昼間はアトラクションに乗ったりご飯を食べたりして夢のような楽しい時間を過ごし、夜になって帰る直前に「ユニバーサル・モンスター・ライブ・ロックンロール・ショー」というショーを観ることになった。簡単に言うと映画に出てくるゾンビ系キャラクターたちが墓場から出てきて、愉快なトークをしながら歌って踊るぜ!というショーで、まあ多分それなりに楽しんでいたのだが、観ている途中でふと「あ、そうか。あれは墓場で、僕もいつか死んであの中に入れられるんだ」ということに直観的に気付いてしまって、夢のような楽しい時間の終わりに訪れたそのあまりの残酷な現実に耐えられず、ショーの途中で泣き出してしまった。もちろん、さっきまであんなに楽しそうだったのに急に泣き出すもんだから母親には心配されて理由を聞かれたが、当時はこんなことを言葉で説明するわけにもいかず、「友達とお別れするのがさみしい」とかとりあえず適当な理由を言ってごまかしたのを覚えている。昼間に何に乗って何を食べたかなんてひとつも覚えていないのに、こういうことだけはやけに鮮明に覚えているのは皮肉なもんだ。

 

 

かれこれ幼稚園の頃から、僕はずっと自分の死というものをたまらなく恐れていて、この歳になってもそれはほとんど変わっていない。と言ってもいつもいつも怖がっているわけではなくて、陽に当たっている時や人と話している時には大体そんなこと忘れているのだけれど、電気を消して布団に入ってなんとなく眠れないなと思っていると、ふとあの時のショーのように「あ、そうか。僕は死ぬんだ」ということを直感的にわかってしまう日がたまに来る。人生のほとんどのことはどうにでもなるけれど、死だけは圧倒的にどうにもならないということにまず気付いて、そもそも僕が見ているこの目線は絶対的な目線ではなく所詮一人の人間のものでしかなくて、だから僕が死んだあとにはこの目線はもう無くなって、それが無くなったことにも気づけなくて、それから何百年も何千年も何千億年もずっと僕は孤独で、孤独であることも分からずただただ存在しなくて、その間に僕とは関係なく人間は生きて、やがて太陽が恒星としての終焉を迎えて地球も無くなってしまって、やっぱりそのことも僕は分からないまま時間は過ぎていくんだな、とか、そういうことを言葉ではなく直観でわかってしまうのだ。そういう時僕は自分の体がどこかへ飛んで行ってしまうような感覚と、大きな黒い塊に吸い込まれるような錯覚に襲われて、わっ!と思わず叫び声を上げて飛び起きてしまう。そこでやっと自分が今生きていることに気付くのだけれど、それでも自分が死ぬという圧倒的な事実はやっぱり変わっていなくて、ただ布団の上でひとり茫然としてしまう。そういう日が数か月に一回とか年に一回ぐらいのペースで訪れる。まあ僕だって「人間はいつか死んで、棺桶に入れられて、焼かれて骨になるんだ」ということはいつでも言葉では理解できるし、それに対して「いつか死ぬから人は幸せに生きるのさ」とか「死んだ後のことはわからないんだから、考えたって仕方ないよ」と言葉で処理することはいくらでもできるのだけれど、言葉ではなく直観で、一瞬で、その事実に気付いてしまった時にはそんな言葉は通用しなくて、ただその圧倒的な事実の前に恐怖するだけだ。幼い頃には、大人になったらきっといつか怖くなくなるんだろうと思っていたけど、いつまで経っても怖いままだし、いまだにオレンジの豆電球をつけているとあの夢を思い出すし、だから多分僕は自分が死ぬその瞬間まで自分の死を恐れながら死ぬんだと思う。

 

 

 

 

 

そういえばこの前大学の食堂でハヤシライスを食べながら、果たして自分がこのブログを書いている目的は何だろう、と考えていた。文字を書いてそれを公開して、たまに反応が返ってくる、というやり取りで承認欲求を満たすという目的もなくはないけれど、それならFacebookで十分だし、Twitterとかでそういう欲を満たそうと思うことは無いから承認欲求だけじゃない気がするんだよなあ、とかあれこれ考えて結局ハヤシライスを食べ終わるまでにははっきりとは分からなかったのだけれど、今思えば僕はほとんど遺書みたいな感覚でこのブログを書いているような気がしている。自分の死がたまらなく怖くて、それはこの瞬間起こるかもしれなくて、そういうことを考えるけど、考えてもどうしようもなくて、だからどうしようもなく言葉を吐き出して、少しでも自分という混沌とした生の一部をこの地球上に残そうとしているような気がする。そう考えると、「ハルに風邪ひいた」ってのはそういうことなんですかね。思いがけず、我ながら一筋通ったブログタイトルかもしれない。