ハルに風邪ひいた

駆け出し宇宙工学者が気が向いたときに書く方のブログ

それでも、まるい地球を選びたい

 

今年の正月休みは、実家の布団でフルタイムを過ごすはめになった。インフル・ザ・フィーバーである。

年末にかけての追い込みの半徹夜が響いたのだろう、帰省初日から順調に体調は悪化していき、いよいよ大晦日の朝にピーク。40度の熱、ほぼ幻覚のような夢、最悪の目覚めだ。助教の先生が黒い紐のようなものを寄せ集めて球体にして、『これがプロジェクトチームの総意である!』という謎の声明を発表するという恐ろしい幻覚だった。しかも何度寝直しても全く同じ幻覚が再生されるのだ。恐怖だ。かれこれ数十回連続で見た。さすがに40度熱が出ると人の脳みそはバグる。発症がもう1日遅かったら、危うくその幻覚が初夢になるところだった。それはそれで安部公房みたいな世界観の1年になって楽しかったのかもしれないけれど。

 

 

驚いたことに、母親がおそろしく優しい。昔は体調を崩そうもんなら、『てめえ、このクソ忙しいのによくも風邪なんか引いてくれたな!』と、極道の二文字をチラつかさせる勢いだったのが、今となっては『あんたも、せっかく帰って来たのに大変やったねえ。』などと優しく洩らすのである。チラつかせるのは聖母の二文字だ。

僕もいよいよひとり暮らしが長くなってきたので、こうやって手厚く看病してもらえると、もうこの上なく極楽で仕方ない。寝て、起きたらお粥が出てきて、また寝て、起きたらうどんが出てきて、おまけにハーゲンダッツまで出てくる。ああ、なんて僕は親不孝な息子なんだ……という背徳感すら、もはや心地よい。ああ、世界は僕を中心に回っている。ああ、僕は世界に愛されている。安全で、穏やかで、できるならずっとこうやってぬくぬくしていたい……。

 

 

ただ、これほどこの上なく幸せなのにどうしても1日中布団にこもっていると強烈な焦りを感じてしまう。僕はこうやって布団にうずもれたままどこまでも腑抜けて、堕落して、一生何にもなれず、どこにも行けず、世界と正常に関われないかもしれない、という焦りだ。普段の土日でこういう日があっても、どうせすぐ月曜日がやってくるので結局腑抜けることは(でき)ないのだが、インフルともなると強制的に寝床に縛られるので、この焦りは着実に、そして急激に膨らんでくる。

『お前は親不孝で、腑抜けで、世界中から見放されたダメ人間だ!そう、それがプロジェクトチームの総意である!』

数日前までバグっていた脳みそがすっかり真人間の顔をして声明を述べている。

ごめんなさい、ごめんなさい。役に立たなくてごめんなさい。

 

 

 

 

 

 

そんな時、僕は太陽系の動きのことを思う。

「僕らは地球に寝転がっているだけで秒速500メートルという猛スピードで動いているのです」とよく言われる。地球が自転しているからだ。秒速500メートル。100メートル走を0.2秒で走るスピードだ。ウサイン・ボルトが泣いてしまう。

ただ、それだけではない。僕らはさらに秒速30キロメートルで動いている。地球が太陽の周りを公転しているからだ。30メートルではない。30キロメートルだ、1秒で。箱根駅伝を2日間あわせても7秒で走り切るスピードだ。青山学院が泣いてしまう。

それだけではない。銀河の巨大なスケールで見ると、我々の太陽系全体も1つの点として銀河内をぐるぐる周っている。そのスピードは秒速240キロメートル。太陽も、水星も、木星も、ハレー彗星も、小惑星リュウグウも、そして僕らも、全て一緒になって秒速240キロメートルで銀河の中心に対して周っている。日本列島を10秒で縦断するスピードだ。JRさんが泣いてしまう。JALANAも当然泣く。

まだだ。直径10万光年、つまり直径900兆キロメートルの我々の銀河系も、超巨大なスケールで見れば全体が1つの点として銀河の集団の中を動いている。そのスピードは秒速600キロメートルぐらいだそうだ。もうみんな泣きながら肩を組んでサライを歌っている。

僕が布団にくるまっている間も、僕を乗せた地球は猛スピードで宇宙を動いている。ちっぽけなひとつの歯車として確実に宇宙を成り立たせている。途方もない、気が遠くなる話だけれど、なぜだか僕はその事実に勇気づけられるのだ。閉めきった部屋でどうしようもなくうなだれている日も、僕は確実に昨日とは違う場所にいる。それは僕の精神の最も根底の部分を支えていると思う。気持ちの問題だけれど、気持ちが問題なのだ。

 

 

 

 

 

「フラット・アーサー」という人たちがいる。Flat Earther。「地球平面論者」と訳される。我々の住む地球は球体ではなく平面の円盤状で、その外周は高い氷の壁に覆われていて、そして宇宙などこの世に存在せず、現在の宇宙に関する全ての通説はNASAによる陰謀だ、と心の底から信じている人たちだ。あり得ないと思うかもしれないが、彼らは大まじめにそう考え、そう支持する「証拠」を精一杯集め、主にキリスト教圏で今も勢力を拡大しているらしい。*1

 

彼らの気持ちは、実はすごく分かる。もちろん科学的には山ほどケチをつけたいけれど、それでも、気持ちはとってもとっても分かる。

 

だって僕らはこんなにも生きているのだ。こんなにも、僕が生きていることは大事でたまらないのに、それなのに、実は地球は世界の中心なんかではなくて、銀河系の端にある太陽という何の変哲もない恒星のまわりを周っている惑星のひとつで、銀河には他に一千億の恒星があって、その銀河自体もまた一千億個あって、それなのに僕らはお隣の恒星まで行くことすらできない、時間的にも空間的にもちっぽけなゴミみたいな存在です、だなんてそんなのあまりに理不尽だ。神様がいるのなら、世界をこんな風に作ってしまうだなんて意地悪すぎる。神様は僕らを愛していない。

地球だけが世界の中心であってほしい。僕らだけが特別でありたい。僕らだけが神様から愛されていたい。布団の中で母親の愛を一身に受けて看病される時のあの心地よさで、世界の中心で一身に神様の愛を受けて生かされていたい。地球の年齢が45億歳だとか言っているのに、僕らはたったの100年しか生きられないのだ。それなら、愛されていないと嘆くよりも、つかの間の嘘を受け入れてでも愛されていると信じていたい。

その気持ちは、苦しいほど、よく分かるのだ。

 

 

 

 

それでも、やっぱり僕は、僕を乗せたこのまるい地球が秒速600キロメートルで宇宙を駆け抜けている姿を想像したい。それは決して自分の心を安寧にする妄想ではなく、たくさんの観測事実に基づいた途方もなく確かな現実である。だからこそ残酷で、だからこそ僕は勇気づけられるのだ。どんなに前に進めない時も、どんなに明日が揺らいで見えても、僕は確実にこの宇宙のダイナミクスを成り立たせているという事実が、僕の足を前に進めている。安全で穏やかな布団の中も良いけれど、神様に愛された世界も幸せだけれど、それでも僕は冒険に出たい。それでも、まるい地球を選びたいのだ。

 

 

 

 

 

 

ブログを書いていたらいつの間にか日曜日が終わっていた。やばい。明日からの服が無い。2週間ためこんでいた洗濯物を急いで洗う。『おまえ、せやからこまめに洗濯しろゆうたやろがい!』と言わんばかりに洗濯機が巨体をわなわな震わせている。ごめんなさい、ごめんなさい。ずぼらな性格でごめんなさい。

コインランドリーへ向けて自転車を漕ぎ出す。カゴの中の2週間分の生活の抜け殻は水を含んでさらに存在感を増し、僕の自転車をぐいぐいと前に引っ張っていく。少し不安定で怖いけれど、でも今ブレーキをかけてしまうのは、なんだかすごくもったいないような気がする。だから今は、できるだけしっかりとハンドルを握ろうと思う。車輪は、物理を尊重しながらすーっと転がっていく。僕が選んだゆるやかな球体の上を、すーっと転がっていく。

 

 

 

塩と涕と歳と汐

 

幼い頃、僕は泣き虫だった。

 

 

幼稚園の音読発表会で、本のページがうまくめくれなくて泣いた。担任の先生が慌てて飛んでくる光景と、母親が客席で赤面している光景は覚えているが、その後泣いている理由をどう先生に説明したのかは思い出せない。いや、さっさとめくれば済む話やがな、と先生は半ギレだったかもしれない。

 

兄の友人の家に一緒に遊びに行った時、部屋に掛けてあった鬼のお面を見て泣いた。それはもう大声で喚くぐらいガチな鬼だったのだ。それ以降、彼の家に僕が行くときには必ず前もって鬼のお面を外しておくというローカルルールが制定された。たまにルールを忘れて掛けたままにしていると僕がまたワーワー泣くので、彼も半ギレだったかもしれない。いやでも、小学生の部屋に鬼のお面は渋すぎると思う。仮面ライダーだろ、普通。

 

幼稚園にテレビの取材が来た時に、あとで録画を見たら全然映っていなくて泣いた。「カメラが来ても無理やり前に出ちゃダメですからね」という先生の忠告を僕は律儀に守っていたのだが、友人たちは全くお構いなしに前に割り込んでバッチリ映っていたのだった。みんなダチョウ倶楽部の見すぎだと思う。友人たちが満面の笑みでピースしている映像を母親が楽しそうに見ていて、僕だけが母親を喜ばせられていないという事実がたまらなく悲しかったのだった。

 

福岡ドームに野球を観に行った時に、井口選手のホームランボールが目の前に飛んできたのに捕れなくて泣いた。父親はちょうどそのタイミングでトイレに行っていて、戻ってきたら僕がギャン泣きしていたのだ。当時、ホームランボールを売ればきっと一生遊んで暮らせるぐらいのお金が手に入って、父親もこれ以上僕のために働かなくて済むはずだったのに、と本気で悔しかったのだった。なんちゃら鑑定団の見すぎだと思う。帰り道、父の漕ぐ自転車の後ろの席にまたがりながら、自分のせいで父に楽をさせてあげられないのが申し訳なくてまたしくしく泣いた。

 

 

 

 

 

 

いつからかそんな風に頻繁に泣くことはなくなったけれど、実はこのところまたよく泣くようになってきた。というか、何かを感じたらなるべく涙を流して積極的に感情を外に出すようにしている。

 

 

「ワンピース 感動」と検索してYouTubeを観ながら泣く。何度見てもチョッパー編で耐えきれずボロ泣きしてしまう。「コナン 感動」も検索してみたけどあまり良いのが見つからなかったので、ワンピースばっかり観ている。

 

『クレヨンしんちゃん 電撃!ブタのヒヅメ大作戦』を見て泣く。最後、ぶりぶりざえもんが助けにくるシーンで完全にやられた。ついでに『オトナ帝国の逆襲』と『アッパレ!戦国大合戦』も観て、これでもかと涙腺に追い打ちをかける。子供の頃にはあまり感動しなかったシーンで感動し、自分の成長を感じることでさらに泣くというフィードバックループを見事構築する。

 

コインランドリーに行く途中でついファミチキを買ってしまい、乾燥機に入れる100円玉が足りず生乾きで持って帰る羽目になり、あまりの自分の不甲斐なさにイライラがピークに達して泣く。

 

家に帰ってきてパスタサラダを机に置いたときに、思いのほかガタっと大きな音を立てて変な動きで机に着地したのを見て泣く。真顔でパスタサラダを食べる。

 

カネコアヤノを聴いて泣く。

騒がしい路地の隙間から

西日が射すだけ泣きそうで

全てのことに理由がほしい *1

そうだなあ、そうだそうだ。泣く。

 

自分の2年前の日記を見て泣く。博士課程に進学すると決めた時、祖父と話したことが書いてあった。

色々話した。経営を37年間続けたこと、専門ではなかったので多大な苦労をしたこと、その苦労は誰にもやらせたくないこと、自分の仕事は自分のためだと懸命にやったこと、やりたいことは何でもやってきたこと、今年で80歳になるが未だに韓国語を勉強していること、毎日書いている英語日記はもう20年になること、まだまだ僕は若いということ、その若いうちになんでもやりなさい、知識は荷物にならない。

祖父はまるで遺言でも語るかのようで、僕は、その光景を一つも忘れたくはなくて、こんな時に涙の一つでも流せたらいいのにと強く、強く思ったのだった。その時、涙は流せなかった。

 

顔の肌荒れが治らなくて泣いているYouTuberを見て泣く。深刻そうな顔のサムネイルにつられて思わず動画を開いて、気付いたら全部見てしまった。モデルをしている人らしい。*2

「すごい申し訳なくて」「モデルも続けたくないし」「美容系って言ってるのに全然みんなに綺麗なメイク教えてあげられなくて」「こんなに頑張ってスキンケアしてるのに」「やばくないですか普通に」「盛れてなさすぎて」「ほんとに苦痛すぎて」「無理なんだけど」「生きていくのがめちゃくちゃ辛いです」「何撮ってんだろほんとに」「みんなの前で笑ってるけどほんとに泣きたくて」「家から出たくないんですよ、もうほんとに」

僕にはきっと共感しきれないけれど、でも彼女にとって極めて切実で、世界を揺るがす大事件で、声を荒げて、必死で、そういう偏った強い願望を持つことが今を懸命に生きることだと思う。泣く。

 

カネコアヤノを聴いてまた泣く。

たくさん抱えていたい

次の夏には好きな人連れて

月までバカンスしたい

隙間からこぼれ落ちないようにするのは苦しいね *3

しっかりとした気持ちでいたい

自ら選んだ人と友達になって

穏やかじゃなくていい毎日は

屋根の色は自分で決める *4

共感しきれないけれど、彼女にとってきっと切実で、偏った願望はやっぱり美しい。泣く。

 

牡丹茶房『廃優』を観劇して、あまりの恐怖と迫力に号泣する。一緒に観に来た友人2人にドン引きされる。スナッフフィルムを扱った話だった。とても良い芝居だったけれど、単純にこわいのが苦手なので途中から全身が硬直してしまった。こわいのこわい。いたいのいたい。

僕がホラー、特にスプラッターが苦手なのは、肉体の脆さを極端にあからさまな形で見せられるからだと思う。人間が時にあまりにも無力なことくらい知っているから、あえて声高に宣言されるのはあまりにもつらい。

観劇後泊まった友人の家で見た朝焼けの、ちょうど青とオレンジの境目の一番色が淡くなっている箇所を指し示すように細い影が一本走っていて、それはスカイツリーだった。電車に乗る頃には空はやけに不健康そうに青白くなり果てていて、ああ、もう、どうして、続かないものは、続かなくなるだけでなく、いつも、壊れてしまうのだろう。人間の肉体も、景色も、そうだ。

 

自分の2年前の日記を見てまた泣く。

あの人のことがとても好きだ。それは身体と混然一体であり、自分でも区別できないけれど、ただ今この瞬間にあの人の髪に触れたい、肌に触れたい、そう思う。それは純粋だろうか。純粋でなきゃいけないだろうか。

夜明けを待たず、踊ろう、生きているこの瞬間を。

続かないものは、続かなくなるだけでなく、いつも、壊れてしまう。人間関係もそうだ。

 

友人の結婚式の花嫁が最高に美しくてびっくりして泣く。が、親族も泣いていないのに僕が泣いちゃいかんだろ、とさすがに冷静になり頑張ってこらえる。バージンロードを歩く姿は、ほんとうに妖精みたいで、ふんわりとした白いベールは今にも溶けだしそうなぐらいやさしく光を散乱させていた。食感にたとえるなら、きっとアンパンマングミのオブラートのような優しさだ。食感にたとえるのは今後やめよう。

キリスト教一家である友人の結婚式は、本格的な儀式として執り行われ、周りのたくさんの教会関係者は、聖書の言葉に小さくうなずいたり、目を閉じて静かに祈りを捧げたりと、神々しい一体感でもって新郎新婦を見守っていた。

壊れてしまうことを知っているから、抗うように、懸命に、繋ぎとめる必要があるのだと思う。それが結婚の意味なのかもしれない。それが、祈りの意味なのかもしれない。きっと、信仰というのも、切実で、偏った願望のひとつだ。僕にはやっぱり共感しきれないけれど。

 

 

 

歳を取ると涙もろくなると言うので、いよいよ僕もおじさんになってきているのか……、と覚悟していたが、柴田理恵さんが最近泣いたのは「犬が走っているところを見た時」だと聞いて安心した。うん、やっぱり本物は違う。まだまだ僕は若い。

 

うん、そうだ、まだまだ僕は若い。だから、若いうちに何でもやろう。前に進もう。知識は荷物にならない。そうだよね。

 

 

*1:カネコアヤノ『アーケード』https://youtu.be/AjU1BLFmOMM?list=TLPQMDIxMjIwMTkTIyOZGay3sw

*2:https://youtu.be/UyfUos2-Szg

*3:カネコアヤノ『光の方へ』https://youtu.be/cE7-jDEKtE4

*4:カネコアヤノ『燦々』https://youtu.be/EXsnSC-fzMk?t=61

世界、穴だらけ

 

救急車を初めて見た時のことをよく覚えている。

 

そのとき僕は父の運転する車の後部座席に乗っていた。サイレンの音が遠くから近づいてくると、その音波の振幅に比例して交差点に緊張感が高まり始めた。緊張感は空気を揺らがせる。その揺らぎが歩行者たちの足並みを揺らがせる。揺らぎはガラス越しに僕らの車内にも届いて、揺らがされた父は手際よくその音源の方向を特定して車を脇に寄せる。炎天下で汗を拭うサラリーマンも、肘まである手袋とサンバイザーでキメたおばちゃんも、イカツイ顔面を貼りつけた対向のミニバンも、それぞれが揺らぎの中の適切なポジションを察知して配置につく。

 

やがて、揺らいだ空気の真ん中を救急車がビューンと突き抜けた。

 

その瞬間を、日常に突如差し込まれた祈りのようなその瞬間を、しっかりと覚えている。

名も知らぬ人間たちが、名も知らぬ人間の命のために揃って歩みを止めるその光景は、まだ幼い僕の心に鮮烈に刺さったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなツイートが流れてきた。

 

 

ドーナツの穴。ドーナツ本体という実体が生まれた結果、ついでに生まれてしまった穴。生まれたと言っても実体を持っているわけではなく、でも確かに存在感を持ってそこにある。そこにあるんだけど何も無くて、それなのに「やっぱ穴がなきゃドーナツじゃないっしょ!」と、なぜかドーナツのアイデンティティを一身に背負わされてしまっている不思議な奴。それがドーナツの穴。

 

 

先ほどのツイートの彼女はブログの中で、そんなドーナツの穴という微妙な存在は、「確実性が高い『ドーナツ生地』がないと存在が明らかにされないのか」という疑問を投げかけ、さらにそのドーナツの穴を人間の心の揺らぎや葛藤になぞらえ、こう問いかけてくる。

 

揺らぎとか葛藤は、明確な言葉や行動などのアウトプットでしか存在が認識できないのか。その微妙な存在を、微妙なまま感じ合うことはできないのか。*1

 

声を張り上げながら募金活動する小学生たちの横を素通りする時、

泣きながら駅の柱にもたれかかっている女性の横を素通りする時、

前を歩く人の鞄から落ちたペットボトルごみの横を素通りする時、

シャツを汚しながら嘔吐している男子大学生の横を素通りする時、

僕の心の揺らぎは、葛藤は、確かに存在している。

 

本当は、世界はドーナツの穴だらけなのかもしれない。たとえ今ドーナツ本体がそこに無かったとしても、この何もない空間すべてがドーナツの穴になれる可能性を秘めていて、そんな、手に取ることはできない可能性としてのドーナツの穴を、可能性としての心の揺らぎを、葛藤を、可能性のまま感じることができたら。そんなのは甘っちょろい考え方だと嘲笑う自分の左側の脳みそを、それでも受け入れて信じることができたら。

 

世界は変わるんだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨。

 

雨。

 

高円寺を行く僕のスニーカーは地面のなるべくすれすれを這う。

好きな歌人のイベントに行った。財布を忘れて何も買えなかったけれど。

 

「あの人はね、裏ではあんなこと言ってるんすよ。結局ああいう人間なんすよ。」

 

こそあどの『あ』だけで描写された『あ』の人の失われた可能性のことを思う。

『こ』んな思い、『そ』んな行動、『ど』れが本物で、『ど』れが嘘なんだろう。

 

「中央線には現在10分ほどの遅れが出ております」

 

「出ております」

 

「明日小テストとかマジ死んだ方がいいわー」

 

「そう、ごめん、今ちょっと電車遅れてるみたい」

 

「これ、タッチしても反応しないんだけど」

 

「危ないですので離れてくださーい」

 

「うん、また水曜日ねー」

 

「別に怒ってないけど」

 

「危ないですので、離れてくださーい!」

 

「そう、トリキのキャベツで3時間粘ったからね」

 

「耳が不自由です はっきり口元を見せて話して下さい」

 

「中央線には現在10分ほどの遅れが出ております」

 

「出ております!」

 

「出ておりますよっ!」

 

あの日、サイレンが遠く走り去ると、揺らいだ交差点の空気はのっぺりと元の形状を取り戻していった。サラリーマンはサラリーマンの顔をして、おばちゃんはおばちゃんの顔をしてまた歩き始めた。僕がたしかにこの目で見たはずのあの美しい空気の揺らぎは、あっという間に均質化されて見えなくなってしまった。

救急車を妨害しないのは、交通違反になってしまうからである!

走行妨害と患者の死亡との因果関係が認められれば、刑事責任を問われるのである!

そうである!

そうであるけれど。

 

「あの、勘違いかもしれないんですけど」

 

「スクープ!IT実業家との濃厚密会8時間!」

 

「草」

 

「前見ろや死ね」

 

「離れてくださーーい!」

 

「落とすよ」

 

「落としましたよ」

 

「落ちろ」

 

「ラーメン!つけ麺!僕!」

 

「就活浪人」

 

「大丈夫ですか?」

 

「ありがとね」

 

「あたま、大丈夫ですか?」

 

大丈夫、

 

「今、駅着いたよ」

 

「泊まってく、今日?」

 

「飲み足りないから持ってんの~!はい!」

 

「せっかくなんやから、すごい人になってや」

 

「そーれはいわゆるそーそお!S!O!S!O!」

 

そう、

 

「危ないですので離れてくださーい」

 

「全然怒ってへんよ」

 

「トリキのキャベツ」

 

「離れてくださーい」

 

「そんなに悪い人ばっかりじゃないと思うけどな」

 

「ご協力ありがとうございまーす」

 

そう、世界は、

 

「全国的ににわか雨や満月を伴う快晴の気分でよろしいでしょうか」

 

「じゃあね」

 

「よろしいかと思われます」

 

「バイバイ」

 

「問題です」

 

「貝は貝でも抱きしめたくなる貝なーんだ」

 

名も知らぬ人間たちが、名も知らぬ人間の命のために揃って歩みを止める、あの、

 

「正解は」

 

「世界」

 

あの、瞬間を、

 

「甘っちょろくても、信じていたいなあ」

 

世界は、きっと、穴だらけ。

 

 

 

 

道徳が揺さぶればこんにちは

 

19時になってようやく少し陽が傾き始めると、ガロンヌ川はこれでもかとせわしなく、かしましく、キラめき始めた。

乱反射、乱反射。

学会のため訪れたフランス・トゥールーズで、僕は時間を持て余していた。教授とのディナーの約束は19時45分。あと45分。うん、もうやること、ない。やることないから、川の流れでも見る。

乱反射、乱反射。

時間を持て余している割に、目の前で繰り広げられているダイナミックな光の演出を形容する言葉なんかは一向に見つからなくて、急激にもどかしくなった。ぐちゃぐちゃでいて美しくて、何だろうこれは。

乱反射、乱反射。

なんだか考えるのがめんどくさくなって僕は川のほとりの公園の芝生にちょこんと腰を下ろす。

 

芝生で隣に座っているフランス人のおじさんが、なにやら目の前の2人組のギャルに大声で話しかけている。ギャルたちは、キャッハッハまじウケるなにそれクソワロ~(仏語)と大盛り上がりなので一向にそのおじさんに気付かない。おじさんは、なおもギャルたちに大声で話しかける。

これは何だろう。ナンパなのだろうか。いや、おじさん1人でギャル2人同時に?そんなイケイケなおじさんにも見えないし。何だこれ。

おじさん、懲りずに話しかける、ギャルたちキャハハ、おじさん、めげずに話しかける、ギャルたちウヒャウヒャ、これが10回ほど続いて、ようやくギャルの1人が振り返った。

おお、いよいよ何かが起こるぞ。おじさん頑張れ。ナンパだとしたらどう見ても勝算はあまり無さそうだが応援してるぜ。

おじさんは、すかさずギャルたちにジェスチャーを送る。手首をクイっとひねるようなジェスチャー。

むむっ、何だそれは。それは何かのハンドサインなのか。何かの誘いか。フランス流なのか。

ギャルたちは、あぁオッケー、というような感じでガサゴソと自分の荷物を探り始めた。

なぬっ、通じたのか今ので。もしやこのおじさん相当やり手なのではないか。こうやって日曜日に芝生に陣取っては獲物のギャルを見定め、軽快なジェスチャーでギャルたちと連絡先を交換しまくっているのではないか。おじさん、あんた本当はイケイケなのかい。それならそうと先に言っておいてくれよ。

ギャルが荷物から何かを取り出し、おじさんに向かってポーンと投げた。キャッチするおじさん。キャッチしたその何かを器用に取りまわすと、おじさんの手の中からシュポンという音が聞こえた。それはビール瓶の栓抜きだった。おじさんはビール瓶を開けるとまたそれをポーンとギャルたちに返した。キャッチすると、ギャルたちはまたキャハハまじワロと話し始めた。おじさんは満足げにビールを飲み始めた。

うわあ。うわあ。うわあ。うわあ。うわあ。うわあ。

 

コミュニケーションだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

ながいさん、それはコミュニケーションの拒絶です!   

あなたは倫理的空間への介入を拒んでいます!!*1

 

哲学研究者、永井玲衣さんの連載。彼女が倫理学のゼミで、わざわざ電車の席を譲るよりもそもそも座らずに席を開放しておく方がよいのではないか、と意見を述べた時に先生に言われた言葉だそうだ。

 

倫理的空間。めんどくさい空間だ。老人扱いするな!とか怒鳴られるかもしれないし、隣のヘッドホン兄ちゃんから偽善者ぶってんじゃねーよと舌打ちされるかもしれないし、あと1駅なんで大丈夫ですとか断られて、でももう席立っちゃったからまた座り直すのもなんかダサいかな、とか思っているうちに他の人がスッと座っちゃって微妙な空気になるかもしれない。声をかけてもひたすら無視されるかもしれない。フランス人のおじさんみたいに。

倫理的空間はコントロールできない。他人の領域に踏み込むことは自分の制御範囲外に身を投げ入れることだ。傷つけられるかもしれない距離まで相手に近づくことだ。とってもこわくて、めんどくさいことだ。倫理的空間は、何が起こるか分からないカオスのような空間だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高校生の頃、帰りの電車に乗っていると駅の直前で一人の女性が倒れた。貧血か何かのようだった。僕がびっくりしていると、すぐさま彼氏と思われる人が落ち着いて介抱を始めた。彼は女性を抱きかかえ、駅に着くと彼女と一緒に降りた。そして僕も、降りた。なぜか降りた。自分が降りる駅でもないのに、衝動的に降りてしまった。

あの、大丈夫ですか!

僕は衝動的に降りたその勢いで彼らに話しかけた。男性はぐったりとした女性をベンチに座らせながら穏やかに、大丈夫ですよ、と答えた。

ああ、大丈夫だった。僕なんかいなくても、大丈夫だった。僕は急げばまた電車に乗り直すことも出来たけどなんだかそれはこの上なく恥ずかしいことのような気がして、あたかもはじめからこの駅で降りるつもりでしたけど?みたいな澄ました顔をしながらすたすたと階段を上った。

 

これでいいのだろうか。

 

僕が衝動的に降り立ったあの駅のホームは、倫理的空間だった。なんの装備もなく丸腰でそこに飛び込んだ僕は、貧弱なジャブのような言葉を一つだけ繰り出して、それをスッとかわされるとそのまま逃走した。階段を上りきった先で僕は、立ち止まっていた。ああ、逃げた。めんどくささから逃げた。ぐるぐると無駄に思考は巡り、僕は、どこにも行けなくなった。

 

ソイジョイの自販機。気が付くと僕はソイジョイの自販機に一心不乱に小銭を投入していた。ソイジョイは大豆だ!大豆はタンパク質だ!タンパク質は体をつくるもとだ!きっと貧血にも効くに違いない!そんなに間違ってはいないながらもトリッキーに聞こえる論理を組み立てて、僕は再びあのめんどくさい空間に立ち向かおうとしていた。そういうことなら貧血に良さそうな鉄分入りのプルーン味を買えばいいものを、「いや、あの年齢の女性は全員イチゴ好きのはずだ!」などと偏見たっぷりの論理も織り交ぜてイチゴ味を購入した。

ホームに降りると彼らはまだベンチに座っていて、僕はぶっきらぼうに、これどうぞ、とイチゴ味のソイジョイを差し出した。見知らぬ少年に突然大豆バーをプレゼントされて彼らは一瞬ポカンとしていたが、ありがとう、と受け取ってくれた。それだけだった。なんだこんなもんか、とも思った。けれど、僕はその空間で確かにコミュニケーションを為すことができた。僕はそのとき少しだけ、そのカオスな倫理的空間とやらの秘密を見たような気がしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれ、そういえば、と思いだす。あれは乱反射じゃない。ガロンヌ川の波面が太陽に照らされてキラキラとしていたのは、乱反射じゃない。鏡面反射だ。各々の波面はまっすぐに光を反射していたけれど、その波面がたくさん入り乱れて、全体としてカオスに見えていただけだったんだ。ひとつひとつのあり方は単純で、まっすぐなんだ。

 

なんだ、そういうことか。

 

とてつもなくめんどくさいように見えるけれど、制御不能で目を逸らしたくなるけれど、きっとそこにあるのは案外シンプルなものなんじゃないか。コミュニケーションなんて、実は簡単なことなんじゃないか。ビール瓶をシュポン、と開ける程度の軽快さなんじゃないか。栓抜きをポーンと投げ合う程度のカジュアルさなんじゃないか。下心無しにただビールを開けたいという程度のくだらなさなんじゃないか。この世界はそんなに悪い人ばっかりだろうか。うそつきばっかりだろうか。偽善者ばっかりだろうか。イチゴ味のソイジョイを手にした彼らは、あの後あれを食べたのだろうか。見知らぬ人間が渡してきた食べ物なんて、気持ち悪くて捨てただろうか。

信じていたい。甘いと言われても、子供だと馬鹿にされても、僕は信じていたい。まっすぐな論理を詰め込まれたぐちゃぐちゃなそれは、美しいものだと信じていたい。

 

 

ジュンのキャンドル、キャンドルのジュン

 

今日の僕は何でもできる。

 

 

アラームの音もなしで目を覚ました僕は、1秒前まで見ていた夢の余韻をひきずることも無くそう確信した。時計は昼の12時を指そうとしている。しまった、寝すぎた、と思ったけれどうちの時計は20分早いのだったと思い出してまだ11時35分だと気づく。ただ起きただけで20分も得をした。今日の僕は何でもできる。

頼まれていた仕事を消化するために家を出る。適当に半袖シャツ1枚で外に出ると、気温は30℃近くて、暑すぎず寒すぎずちょうど良かった。5月は毎日長袖を着ていたのに今日に限ってなぜだか的確に半袖を選んだ。やっぱり僕は何でもできる。

やるべき仕事を滞りなくこなす。僕は何でもできるからすぐに仕事は終わった。

自転車に乗り込むとなんだか急にスタバに行きたくなった。そういえばずっと喉が渇いていたことに気付く。大通り沿いに悠然と看板を掲げるスタバ。周りはコンクリートだらけなのにこの一角だけおしゃれな森の小屋みたいになっているスタバ。何でもできる今日の僕に相応しい休憩スポットのはずだ。

横文字の横文字まみれフラペチーノみたいなやつを注文する。「トールサイズの横文字の横文字まみれフラペチーノでございますね。」どういう味なのか想像がつかないけれど僕は全知全能のフリをしてポソリとうなづく。なにしろ今日の僕は何でもできるのだ。MacBookに思考の全てを支配された全知全能のスタバドヤラーたちになめられてはならない。

青空を見たくて窓側の席に座ると、「まぶしいので閉めちゃいますね」と店員さんにブラインドを降ろされた。雲一つない大きな大きな今日の空は、ブラインドの隙間わずか数ミリの幅に細長く切り刻まれてしまった。

今日の僕は何でもできる。だから、きっと今日の僕の運勢は最高だ。ヤフー12星座占いを開く。

 

おうし座 総合運60点

ふと、繰り返しの日常から離れたくなる日です。具体的な不満はなくても、現実から離れて行動したくなりそうです。

 

なんでこんなにも僕のことを知っているんだろう。太陽が大体おうし座の方向に見える時期にこの世に生まれた、という雑な理由だけでどうしてこんなにも僕の行動を型に埋め込んでしまうんだろう。今日が所詮60点の日だなんて言われなくても分かっているのに、なんでわざわざそれを僕に突き付けてくるんだろう。

 

開運のおまじない

危険のないようにして、キャンドルなどの炎をただ、見つめて。落ち着きます。

 

うるせえ!甘い匂いのするろうそくなんて死ぬまで絶対買わないからな!死ぬまでキャンドルを呪い続け、それで僕が死んだら葬式の時にはあてつけのようにキャンドルを焚きまくってやる。お坊さんの法衣にべったりラベンターの香りをつけて、奥さんにキャバクラ通いを疑われるように仕向けてやる。なんなら火葬もキャンドルでやってやる。最高に甘い匂いのする生焼けの死体になって、通りすがりの人におしゃれな焼き肉屋ができたんだと勘違いさせてやる。

 

星占いなんか嫌いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

昔の昔の大昔、地面は平らで天はドームのように世界を覆っていると本気で思われていた頃、星占いは地上の吉凶を予測する重要な儀式だった。日食や月食が起きると人が死ぬ。生まれた時の月や惑星の位置関係で人の運命が決まる。そんなことを本気で信じていた。天は畏れの対象でありながら、実体があった。だから、畏れを抱きながらも人間と天はつながっていられた。

 

昔の昔のそんなに昔でもない昔、幼稚園児の僕は車に乗りながら昼間の月を眺めていた。父がアクセルをぶおーんと踏み込むと建物はビュンビュン通り過ぎて行くのに、月はいつまでも僕らの車と同じスピードで走ってくれた。渋滞で車が止まると月も律儀に止まって僕らが走り出すのを待ってくれた。月は優しかった。紳士だった。身近で歳の離れた寡黙なおじさんのようだった。僕と月はつながっていた。僕と月はつながっていられた。

 

 

 

 

 

 

 

ソフトウェアが計算の終了を知らせる。1999年5月25日20時47分49秒、僕がまだ5歳だった年の現在時刻を入力すると、NASAの公開データからその日時での月の位置と速度が読み出される。僕が計算した宇宙機の軌道はその時刻に狂いなく月に到達し、月の重力で正確に方向を曲げられてまた狂いなく地球に戻ってきた。今日の僕は何でもできる。月はコンピューター上で僕の指示通りに動いていて、僕は月を配下に従えたような気分になる。

 

配下に従えると、月は優しくなくなってしまった。その昔一緒に走ってくれたのは、僕の勘違いだったことも知った。ただ月は遠くにあるだけだった。遠くにあって、僕らの車のスピードとは一切関係なくゆっくり公転しているだけだった。彼はもう紳士なおじさんではない。天は世界を覆うドームではない。地面は平らではない。僕がいるのは太陽系第3の惑星で、球形をしていて、衛星をひとつ持っている。何でもできる今日の僕なんかまるでこの世に存在すらしていないかのように、その衛星は黙々と地球の周りをまわっている。

僕と月はもう二度とつながれなくなってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あっという間に陽が暮れた。何でもできる僕は何にもせずに一日を終えようとしている。

レッドブルを買いに行く。ついでに夜食も買おう。明日の朝ごはんも買おう。蒸気の出るアイマスクも買おう。キャンドルだけは、死んでも買わない。