ハルに風邪ひいた

駆け出し宇宙工学者が気が向いたときに書く方のブログ

ドロップと桜のマーチ

まだまだまだまだ懲りずに短歌を作っている。

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太陽と地球と月と絞殺と刺殺とフライドチキンの宇宙

 

 

 

 

 

 

 

 

シルヴェスタ―・住宅ローン

ベネディクト・缶バッジ

ミラ・ジョボジョボビッチ

 

 

 

 

 

 

 

 

たのしいね!たのしいね!たの、たのしいね!たのしいね!たの、たのし、たのしいね!

 

 

 

 

 

 

 

 

まだ熱は後部座席にある

冬は

ギャグマンガみたいな雲だ

父がいた

 

 

 

 

 

 

 

 

求めても求められない恋がある同じ地平に東京がある

 

 

 

 

 

 

 

 

えびかにの手足をもいでしあわせとふしあわせとは同じ生き物

 

 

 

 

 

 

 

 

喉元に刺さったままの夜がある

万引きペプシの泡の苦さで

 

 

 

 

 

 

 

 

さようとはいかようですかいかですかたこですかまた別れのにおい

 

 

 

 

 

 

 

 

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幼稚園から小学校へ上がるタイミングで、父親の転勤で福岡から兵庫に引っ越すことになった。やけに改まった様子の両親からそのことを告げられた夜、当時小学四年生だった兄はとても悲しんでいた気がするけれど、僕はというと「ふーん、そうなんだ」という感じだった気がする。なるほど遠くに引っ越すのね、ということは分かったけれどイマイチそれがどういうことなのか実感がなかったのだ。

引っ越しの当日。幼稚園でいちばん仲の良かった友達が見送りに来てくれた。いつも元気で笑顔の絶えない彼の表情はすこしぎこちなかった。それから多分覚えたての別れの言葉を交わして、多分握手なんかをして、多分父が「そろそろ行こうか」と言って、車に乗り込んで、それから僕はえらい泣いた。友達もえらい泣いた。彼が泣くのを見たのは初めてだった。それを見てまたえらい泣いた。びゃーびゃー泣いた。泣く理由なんかよく分からなかったけれど、ただただ悲しくて、お互いの表情が遠く見えなくなったあとも僕らは共鳴し合うように泣き続けた。

 

僕が生まれて初めて味わった別れの体験だった。18年前のちょうど今頃のことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日、教授の運転する車で日帰り仙台出張へ行ってきた。生まれて24年、実は東北へ行ったことが一度もなくて、雪国には勝手に神聖なイメージを膨らませていたのだが、人の運転する車で知らぬうちに個人的最北端ラインを突破してしまって、おまけに雪なんか全く積もっていないわりに無駄に寒くて、少しも感慨は湧かなかった。律儀に貞操を守り続けて、「初夜は特別な日にするの!」なんて言いながら、酔った勢いであっさり初体験してしまったような感じだろうか。違うか。結局初の東北進出で口にしたのはパーキングエリアの大して美味しくない鮎の塩焼きと、食堂のちょっと美味しいカツカレーだけで、またドタバタと車で帰路へ。教授のやや荒い運転に心配になりながら、ぼーっと窓の外を眺める。

車窓越しに知らない街の知らない家の明かりが次々と通り過ぎていく。あの家の明かりひとつひとつに少なくとも一人の人間が住んでいて、僕はそんな名も知らぬ無数の彼らの生活になんとなく思いを馳せていくけれど、彼らは僕の存在なんかには全く気付いていなくて、そんな小さなすれ違いのような出会いと別れを延々と繰り返すうちになんだか妙な気持ちになってしまう。それは悲しいに近いけれど、怖いとも寂しいともつかない微妙なざわざわだったりする。そしてそれはまた不思議なことに、やけに魅力的であったりもするのだ。

かれこれ道中の5時間ずっと窓の外を眺めていたような気がする。夜の街には、そんな不思議な魅力がある。

 

 

 

 

 

宇宙にも、同じ構造がある。夜空には無数の光が輝いているけれど、あの肉眼で見えている光のひとつひとつは恒星といって、ぼくらの太陽系でいう太陽だけしか見えていない。もっと言うと、その恒星だと思っている光はたまに銀河だったりして、そうするとその光ひとつは実は一兆個ぐらいの恒星の塊だったりする。さらに、太陽系に水星、金星、地球、火星……があるように、恒星の周りには肉眼では見えない惑星がいくつか存在したりもする。だから、あのおびただしい量の光のさらに何倍もの星が存在していて、僕は名も知らぬ無数の星たちや、もしかしたらいるかもしれない無数の宇宙人たちになんとなく思いを馳せるけれども、残念ながら現状の技術では太陽系外の惑星に行くことや、宇宙人に会いに行くことは不可能で、僕の思いは届くことなく少しずつ減衰しながら夜空に溶けていく。それはやはり小さな別れの連続のようで、悲しくて、怖くて、寂しくて、不思議なことに、魅力的なのだ。

宇宙とのそんな微妙な関係を、僕はなぜだか愛してしまっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

別れの意味は、僕の中で少しずつ変わってきたように思う。もうあの頃のようにびゃーびゃー泣くような別れはなくなってしまって、なんだか自分が随分薄情な人間になってしまったような気もする。けれども今の僕には別れをただ悲しいものととらえるのではなくて、もう少し複雑で、曖昧で、魅力的なものだと受け入れることができる。

 

今年も、たくさんの別れを経験した。小さな別れや、しばしの別れ、多分大きいであろう別れ。思いが通じる別れもあれば、気楽な別れ、すれ違いのような別れもあった。

別れのにおいはいつも、知らぬ間に風に染み込んでいて、気がつくと鼻腔いっぱいに充満している。この時期になるとみんな揃ってマスクを着けだすのはそのせいなんじゃないかと思う。新しい空気を吸い込む前に、まずは吐けるだけ息を吐いて、意味ある呼吸を小さく繰り返して、ゆっくりと息を整えようと思う。春の空気はもうすぐそこまで来ている。

 

木漏れ日がところてん

夏ごろに作った短歌を中心にまとめた。ただそれだけの回です。

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在り方を問う後頭部に突き刺さるレクイエムのごときYMCA

 

 

 

 

 

 

 

(無常観-無常感)×0.1のような明け方5時の青ねぎ

 

 

 

 

 

 

 

毒色のサーティーワンを舐めたあと手を繋ぐより繋がれたい昼

 

 

 

 

 

 

 

iPhoneの宵、酔い、余韻の予測

今、君と朝まで呑みたいと思う

 

 

 

 

 

 

 

何者かの何かのための軒下で監視カメラと分け合う雨音

 

 

 

 

 

 

 

生爪の裏の肉片をすりつぶし「人生は長い暇つぶし!」なう

 

 

 

 

 

 

 

名も知らぬ町に名がありその町で名もなき僕のためだけのローソン

 

 

 

 

 

 

 

ブレスケアのbreath taking、はっとして、ほっとして、バス、君を連れ来る

 

 

 

 

 

 

 

火葬場にちいちゃんの世界がありつまり人はいつでも幸せであれる

 

 

 

 

 

 

 

大丈夫の真ん中の人大丈夫?の真ん中の人大丈夫だよね?

 

 

 

 

 

 

 

うたかたとほうまつを足して2で割ってあわよくば夏の答えを知りたい

 

 

 

 

 

 

 

砂時計内の砂A、砂Bが出会うようにして今日も君と朝

 

 

 

 

 

 

 

変拍子的三三七で頭かく

言えない理由を聞いているのに

 

 

 

 

 

 

 

潰れれば赤い塊になるきみのツンデレひとつ愛しくて草

 

 

 

 

 

 

レバニラを上手に作りたいというデジャブ人間であるのは束の間

 

 

 

 

 

 

 

READMEREADYOU

夜、この街の空気はぼくらを邪魔せずにある

 

 

 

 

 

 

満月に少し足りない夜だけは足りない人の足りなさが好き

 

 

 

 

 

 

 

木漏れ日がところてんきみの弾力がきみの弾力が、きみ、きみのための夏

 

 

 

 

 

 

 

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冬はきらいだ!

 

 

キューブでありるったかもだろうんだね

まだまだ懲りずに短歌を作っている。

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パチキューン、光を食べる音

またも写ルンですのあまりにも早い死

 

 

 

 

 

 

 

死ぬことを覚える前に生きることを死ぬほど覚えよ、たまごボーロマン

 

 

 

 

 

 

 

きの音のくうきの音がすききりんすきすきききききききりんのし

 

 

 

 

 

 

1ホールのケーキを買う意図アイプチを貼る意図そうめんが揖保乃糸の意図

 

 

 

 

 

 

 

人の意図人の意図人の意図人の意図人の意図人の意図人の意図人の意図ひ

 

 

 

 

 

 

 

性欲のリッシンベンで火を灯すふたりの夜に嘘が無いこと

 

 

 

 

 

 

 

微熱だよ、いや熱だから、微熱だよ、いや熱だって、という名の詩人たち

 

 

 

 

 

 

 

皆さまの小さな勇気が子供らの未来を奪う、がんばれ日本!

 

 

 

 

 

 

 

死ぬまでに死ぬほど遠くに行こうこの星の重力はたかが三次元

 

 

 

 

 

 

 

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美術館が好きだ。

美術が好きだ、とは言わないのは絵画や写真自体にさほど執着があるわけではないからだ。絵は棒人間専門だし、写真は写ルンですでちょっとしたエモノスタルジック写真が撮れればそれでもう満足してしまう。だから、歴史的に価値の高い作品とやらを観ても何がすごいのかいまだに説明できないし、セザンヌだったかスザンヌだったか毎度忘れてしまう(モネとマネの違いはようやく分かり始めた)。そんなわけで、美術館に行っても作品を純粋に鑑賞している時間は実は半分も無かったりする。では一体何をしているかというと、ほとんどの時間は作品を観ながら別の考え事をしているか、何も考えずぼーっとしているか、手を繋ぎながらわちゃわちゃ鑑賞しているカップルの人間観察をしているかのどれかだ(彼氏が彼女の前でドヤ顔をしてたりなんかすると余計にガン見してしまう)。

おい、そんなことなら別に美術館なんか行かずに一人でやればいいじゃないか、と言われそうだが、それは、そうでもないのだ。芸術家が魂をこめて生み出した作品たちは、それはそれは途轍もないエネルギーを秘めていて、そのエネルギーを一身に浴びる間、僕の体が、脳が、わずかに変化する。進化すると言ってもいい。無理やり進化させられてしまうと言ってもいい。そうして進化させられた体と脳は、普段の僕では考えもつかないようなアイディアや、言葉を導き出すことがある。美術館という凄まじいエネルギーを持つ空間でのそうした体験を、僕は愛しているのだと思う。いくら価値のある作品でも、自分の身体や思考に影響を与えないものはどうでもいいのだ。結局僕は、自分のことにしか興味がないんだと思う。

 

 

 

 

フィリップス・コレクション展を観てきた。アメリカのダンカン・フィリップスさんが90年代に熱心に集めた作品群の展覧会で、ドラクロワシスレークールベ、モネ、ドガマティスゴッホピカソなどなど教科書でお馴染みの名だたる巨匠たちの絵が一堂に集められており、なんとも贅沢な空間に仕上がっていた。相変わらずふらふらと考え事をしたりぼーっとしたりしながら見ていたのだけれど、ふと思う。

ピカソやばくね?

この並びで観ていくと、明らかにこいつだけ異質である。いやだって、なんだあれ。やたらカクカクした馬と牛が、ありえない姿勢で頭とお尻を同時にこちらに向けている*1。もう体どないなっとんねん。一体どの角度から、どんな瞬間を切り取ったものなのか。というか本当に牛なのかも怪しいレベルだ。これがいわゆる「キュビスム」という画法だそうで、ある時期に一大ムーブメントとなって流行したそうだ。なるほど、巨匠さんとやらが考えることは僕みたいな一般人チンパンジーには理解できないってことね、はいはい、と半分拗ねながら観ていたが、同じくキュビスム創始者ジョルジュ・ブラックの作品に付いていた解説が目に留まる。

 

本作品においてブラックは、(中略)傾斜したテーブルの上のモティーフを複数の視点から同時に捉えている。*2

 

ああ、多次元になりたかったのか、と僕は勝手に納得してしまう。

たとえば僕らが生活している三次元の世界は二次元平面の世界が空間的に無数に重なってできたものだと考えると、僕らが両目で世界を見ている瞬間は常にその中から片目1枚ずつ、計2枚の平面映像を選んでそれらを重ね合わせて見ていることになる。ならばもっと多次元の世界でたくさんの目玉をつけて生活している未来人or宇宙人がいたとしたら、彼らは僕らの住む三次元世界が空間的にも時間的にも無数に重なってできた世界の中で、複数の視点の、かつ複数の時点の、三次元の映像を「同時に」見ることができるはずだ(映画『インターステラー』や『メッセージ』を観た人には分かってもらえるだろうか)。思うに、ピカソたちはそういう「視点」を描いたのではないか。そういう多次元の世界での「一瞬」を二次元の画面に投影してみせたのではないか。そう思うと、なんと合理的な手法だろう、と納得してしまったのだ。それは僕らのこの三次元世界のどうしようもない肉体限界を超えるための、極めて合理的で、知性的な試みなんじゃないか。

もちろんキュビスムの正しい解釈を知らないのでこれは勝手な妄想だけれども、僕にはどうもそれで、目の前の巨匠くんたち一同に親近感が湧いてしまった。たしかにそういう感覚、僕にもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「多次元になりたいんだよね」

ある飲み会の後、町田駅の連絡通路を歩いている時、酔っていた(自分に酔っていた)僕は後輩にこんなことを口走った。なんじゃそりゃ。キアヌ・リーブスかお前は。後輩の反応をあんまり覚えていないけれど、若干引いていた可能性は高い。

ただ字面の何とも言えぬイタさはさておき、素面の状態の今でもこのセリフは僕にとっては全く嘘のない言葉だな、と思う。僕は、多次元になりたいのだ。

 

幼い頃、少なくとも小学校低学年あたりには、僕はなぜか宇宙飛行士になりたかった。しかし、いつなりたいと思い始めたのか、なぜなりたいと思ったのかはよく分からない。「子供の頃ニュースで見た若田光一さんの姿がかっこよくて!」というようなありがちな記憶も特に思い当たらない。ただ当時からしっかりと感じていたのは、「宇宙はこんなにあり得ないほど広いのに、なんでこんな地上でチョロチョロ動いてるだけで一生を終えなきゃいけないんだ!」というどうしようもない不満である。我ながらいかついパンクマインドだ。でもこれもやはり、成人した今の僕にとっても全く嘘のない言葉だと思う。僕らはこの地球上で三次元空間を自由に動いているようでいて、広い目で見ればほとんど地上に張り付いて二次元的に動いているだけだ。スカイツリーに登っても、飛行機に乗っても、スカイダイビングをしても、重力は常に容赦なく僕らを縛り付ける。僕らの体は常に、「重力が働くほうが下」という意識から抜け出すことは出来なくて、多少上下に動いたり、地球の反対側に行ったりしながらも基本的には重力に垂直な方向にひたすらウロチョロしている。それは僕にとって、すごく残念なことに思えた。そのまま地球の重力だけに縛られたまま死んでいくのが悔しかった。だから僕は、真の意味での三次元を目指したのだ。上下という感覚すら無く、好き勝手に空中を漂うその肉体的自由に憧れたのだ。

ただ、僕の生まれた時代は少しだけ早かった。この時代に宇宙に行く選択肢は、10年に1度あるかないかの宇宙飛行士選抜試験を奇跡的な確率で通過するか、これまた奇跡的なレベルの大富豪になって宇宙旅行に行くかぐらいだろう。悲観的に見ているわけではないけれど、僕の体が健全なうちに宇宙に行く機会を得る確率は、かなり低い。僕は望むような肉体的自由を得られないまま死んでいくのだろうか。それは、とても残念なことだ。本当に悔しいことだ。

 

でも、だけど、それでも、と思う。

 

ピカソやブラックらが試みたように、僕らは精神的にはもっと多次元であれる。研究をして、本を読んで、短歌を作って、芝居を観て、サンドウィッチマンで笑って、ボクシングをして、友人とくだらない飲み会をして、僕はそのたびに新しい感覚・視点を手に入れる。そうして僕の思考の次元はまた少し上がる。それは0.0001次元ぐらいの差かもしれないけれど、それでも確実にそれまでの自分の思考次元ではたどり着けないような景色を見られるはずなのだ。僕はそうして、できるだけ遠くの景色を見たいと思う。この星にへばりついて一生を終えるやるせなさを抱えながら、せめて精神的には未来人並みの多次元生物でありたい、と思う。それは、この時代に生まれてしまった僕ができるせめてもの抵抗だ。なんとも、我ながらいかついパンクマインドだ。

やっぱり僕は、自分のことにしか興味がないんだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ZOZOTOWNの社長が月旅行をすると聞いたときにはくそー先を越された!と実は密かに拗ねていたのだけれど、実現すればそれはそれできっと刺激的な映像になるだろう、と楽しみでもある。様々な分野のアーティストも同乗するそうだけれど、一体だれを連れて行くんだろうか。しょーもない低次元生物連れていくとか言ったら許さないからな!

 

 

ロジカルロンリーラディカルシンキング

懲りずに短歌を作っている。

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ニュートンの呪縛で月が欠けていき同じ呪いが僕にもかかる

 

 

 

 

 

 

 

「小骨から俺は世界を変えてやる」

人に忘れられたときにアジフライは死ぬ

 

 

 

 

 

 

 

垢抜けぬ少女の垢を垢のまま煮詰めたものにわたしはなりたい

 

 

 

 

 

 

 

不釣り合いなイコールのようなコンセントがひとつ空いててあの人がいない

 

 

 

 

 

 

 

飴色の雨が溶けあうとき僕は皮膚色の皮膚で区切られている

 

 

 

 

 

 

 

あの人の炭素が漂うキッチンの換気扇を回すかためらう

 

 

 

 

 

 

 

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この世のあらゆるものが分子という粒の塊で出来ていると知った時、僕は相当驚いたと思う。特に、自分の体もまたその粒の集合体であると知って、僕はなんとも言えない気持ちになった。それは、怖いとも面白いともつかない、やっぱりなんとも言えない気持ちだった。いや、だって、粒って。大丈夫なのそれ。ちょっと気抜くと腕とか足とかバラバラになってジェンガみたいに崩れちゃうんじゃないの。お湯に浸けたら砂糖みたいに溶けたりするんじゃないの。

そしてその分子もさらに細かく分解すると陽子・電子・中性子の組み合わせで出来ていて、実は水と酸素ではその陽子・電子・中性子の組み合わせ方が変わっただけで、材料は同じだという。おい、なんだそれは。もし水飲んでるときにうっかり陽子と電子が組み変わっちゃって、猛毒とかになったらどうするんだ。朝起きたら突然自分の髪の毛がパスタになってたらどうするんだ。グレゴール・ザムザもびっくりだ。

しかもその陽子・電子・中性子も分解すると素粒子というもっと細かい粒で出来ていて……。はあ。そうですか。参りました。 

 

 

 

科学は精密な実験結果に基づき、いたって論理的に理論を構築する。そんなぐうの音も出させてくれない結論を前にするとき、僕の感情の介在する余地は無くて、なんだかそれは寂しいことのように思えてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

化学の話をしてみる。

人間は酸素を吸って二酸化炭素を吐く。これを化学式で書くと、O2を吸ってCO2を吐き出すということになる。つまり、単純に考えると人間は呼吸することで自分の体内のC(炭素原子)を外に放出していることになる。

さて、人間の一日の呼吸量は19,000リットルぐらいだそうだ。空気の密度は1リットルあたり約1.3グラムなので、人間は一日に19,000×1.3=24,700グラム呼吸をすることになる。そしてこの呼気のうち約3%二酸化炭素なので、その人からは一日あたり24,700×0.03=741グラムの二酸化炭素が吐き出されることになる。これは、炭素原子の数に換算すると約1025乗個になる。つまり、ある人が一日部屋にいた場合、もともとその人の体の一部であった炭素原子は、1025乗個部屋に充満することになる。

1025乗というのはどれだけの量か想像しにくいが、例えば1025乗円の貯金を持っていたとすると、毎日1兆円を使って豪遊しても、貯金を全て使い切るのに274億年かかる。なんじゃそりゃ。例えてみても実感の湧かない、とにかくおびただしい量だ。一日部屋で呼吸をし続けるだけで、そんなおびただしい量の「元自分」の炭素が部屋を飛び回ることになる。

一方、植物は逆に光合成によって二酸化炭素(CO2)を吸って酸素(O2)を吐き出す。つまり空気中の炭素原子を植物の体内に取り込むことになる。だからもし部屋に観葉植物を置いていたりなんかすれば、一年も経つとそいつは相当な量の「元自分」を体内に取り込んでいるはずである。ペットは飼い主に似るというが、植物は物理的に育て主に同化していくのだ。いつか根っこが足になって枕元で添い寝をしてくれるかもしれない。

 

だから、安心してほしい。例えばあなたが部屋で一人っきりでいる時も、あなたの部屋を訪れた「元友人」の、「元恋人」の、「元家族」の炭素原子があなたを取り囲んでいるのだ。だから、全然寂しくはないのだ。

例えばあなたの部屋の植物の一部は、あなたの友人の、恋人の、家族の一部で構成されているのだ。だから、全然寂しくはないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

宇宙の話をしてみる。

これまでの偉人たちの色んな観測事実から、宇宙の始まりはビッグバンという大爆発で生まれたらしいと考えられている。ビッグバン。韓流アイドルではない。さて、世界の始まりがビッグバンだと聞くと、僕らの体を構成する分子もその時に作られたのかと思うかもしれないが、実はそうではない。というのもビッグバンの頃は粒の勢いが良すぎて、陽子・電子がくっついてもすぐにバラバラになってしまうからだ。血気盛んな思春期の若者たちがくっついたり離れたりを繰り返して自然消滅するのと同じようなもん、ではない。

では、僕らを構成する分子が作られたのはいつかというと、その数億年も後、星が生まれてからだ。星の内部にはとっても熱い炉があり、そこで炭素や酸素などの分子が作られる。そうして分子をたくさん作った星はその一生を終える時、ものすごいエネルギーを放出して大爆発を起こす。超新星爆発というやつだ。いや、だから韓流アイドルではない。この超新星爆発によって宇宙空間に分子がばらまかれる。そうやって宇宙のあちこちで起こった爆発でばらまかれた分子のうち、たまたま太陽の付近にあったものが集まって地球が生まれ、そして僕らが生まれた。

つまり、僕らは星の死骸で構成されているのだ。そして僕の上半身と下半身は別の星の死骸かもしれないし、もしかしたらこれを読んでいるあなたと僕を構成する分子たちは、はるか昔のどこかの星の中で一緒にいたのかもしれない。

 

だから、安心してほしい。例えばあなたがどうしようもなく孤独なときも、あなたと同じ星の死骸から生まれた同志がきっとどこかで生活を送っているはずだ。だから、全然寂しくはないのだ。

例えばあなたが愛する人と一体化できなくて悩んでいても、いつかこの太陽系が寿命を終え、膨張する太陽に地球が呑み込まれたときに、同じ星の中で一つになれる。だから、やっぱり全然寂しくはないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大学の四年間は一人暮らしってなんて自由で楽しいんだ!と、一度も寂しいと思ったことなんてなかったが、大学院に進学したぐらいからどうも、「そろそろ一人暮らしとかよくね?」と思うようになってきた。ひとりぼっちってこんなに寂しいもんなのか。いやしかし、この部屋には先週遊びに来たAさんの炭素原子もいるから厳密にはひとりぼっちではないはずだし、なんなら隣の部屋に住んでいる人は同じ星出身かもしれないし、全然寂しくないもんね、と部屋でひとり自分を鼓舞していると余計に悲しくなってきた。しばらく換気して、せめて今日は新鮮な「元誰か」と一緒に寝ようかな。

ありふれる殺人的平等感

最近は思ったことがまとまった思考にならず、短いことばの欠片としてぽこっと現れることが多い。そういうときに出てくることばの欠片は大体5~7文字に収まることが多いので短歌という形式にまとめることで保存するようにしている。

 

というわけで、今回は最近作った短歌をいくつか並べてみる。

はい、ただそれだけの回です。

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カフェラテで恋しく揺れる襟足のカールは小人の仕業ではない

 

 

 

 

 

 

 

一人称がやや崩れたらあの人の耳の形を思い出せなくなった

 

 

 

 

 

 

 

ツナ缶をわずかに一つ食う時もバニラ、バニラは高収入だ

 

 

 

 

 

 

 

階段で息が切れたらぼくはもう圧倒的にコフレドールになれない

 

 

 

 

 

 

 

 

産んだ子の髪を掴んで投げるようで孕むの孕という字の正しさ

 

 

 

 

 

 

 

JKとしての人生を2時間観てもぼくの人生は腹がすく

 

 

 

 

 

 

 

寂寥をじゃくびゅうと読む

びゅう、と風

渋谷の風は誰にも当たらぬ

 

 

 

 

 

 

 

あなたとは他人でいるがカツカレーでお待ちの方として夫婦にはなった

 

 

 

 

 

 

 

脚フェチの彼の親父も脚フェチで

そうだ、地球は3番の星

 

 

 

 

 

 

 

「襟足の寝癖をなぞる指が好き」

百億年後、ぼくは孤独だ

 

 

 

 

 

 

 

無機質の彼にも朝が降るごとく、美人ナースはぼくのものでない

 

 

 

 

 

 

 

「あなたにはあなたのように生きてほしい」の、ハ行とサ行は息しか吐かぬ

 

 

 

 

 

 

 

救急車が立ち往生しマッキーが今半分ほど染み付いたところ

 

 

 

 

 

 

 

街灯に体半分照らされてファミマのチキン安らかに在り

 

 

 

 

 

 

 

さようならを言いたくなくてバイバイと言ったらさようならと言われた

 

 

 

 

 

 

 

しおりにしたこの電話相談カードで救われた人をぼくは知らない

 

 

 

 

 

 

 

みながみなみながらみないふりをするそのえねるぎーででんしゃはうごく

 

 

 

 

 

 

 

中指をみじん切りする

血で染まる

腕軽くなる

ぼくここにいる

 

 

 

 

 

 

 

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 だから、これだけって言ったじゃないか。