ハルに風邪ひいた

駆け出し宇宙工学者が気が向いたときに書く方のブログ

キューブでありるったかもだろうんだね

まだまだ懲りずに短歌を作っている。

************************

 

 

 

 

 

 

 

 

パチキューン、光を食べる音

またも写ルンですのあまりにも早い死

 

 

 

 

 

 

 

死ぬことを覚える前に生きることを死ぬほど覚えよ、たまごボーロマン

 

 

 

 

 

 

 

きの音のくうきの音がすききりんすきすきききききききりんのし

 

 

 

 

 

 

1ホールのケーキを買う意図アイプチを貼る意図そうめんが揖保乃糸の意図

 

 

 

 

 

 

 

人の意図人の意図人の意図人の意図人の意図人の意図人の意図人の意図ひ

 

 

 

 

 

 

 

性欲のリッシンベンで火を灯すふたりの夜に嘘が無いこと

 

 

 

 

 

 

 

微熱だよ、いや熱だから、微熱だよ、いや熱だって、という名の詩人たち

 

 

 

 

 

 

 

皆さまの小さな勇気が子供らの未来を奪う、がんばれ日本!

 

 

 

 

 

 

 

死ぬまでに死ぬほど遠くに行こうこの星の重力はたかが三次元

 

 

 

 

 

 

 

************************

美術館が好きだ。

美術が好きだ、とは言わないのは絵画や写真自体にさほど執着があるわけではないからだ。絵は棒人間専門だし、写真は写ルンですでちょっとしたエモノスタルジック写真が撮れればそれでもう満足してしまう。だから、歴史的に価値の高い作品とやらを観ても何がすごいのかいまだに説明できないし、セザンヌだったかスザンヌだったか毎度忘れてしまう(モネとマネの違いはようやく分かり始めた)。そんなわけで、美術館に行っても作品を純粋に鑑賞している時間は実は半分も無かったりする。では一体何をしているかというと、ほとんどの時間は作品を観ながら別の考え事をしているか、何も考えずぼーっとしているか、手を繋ぎながらわちゃわちゃ鑑賞しているカップルの人間観察をしているかのどれかだ(彼氏が彼女の前でドヤ顔をしてたりなんかすると余計にガン見してしまう)。

おい、そんなことなら別に美術館なんか行かずに一人でやればいいじゃないか、と言われそうだが、それは、そうでもないのだ。芸術家が魂をこめて生み出した作品たちは、それはそれは途轍もないエネルギーを秘めていて、そのエネルギーを一身に浴びる間、僕の体が、脳が、わずかに変化する。進化すると言ってもいい。無理やり進化させられてしまうと言ってもいい。そうして進化させられた体と脳は、普段の僕では考えもつかないようなアイディアや、言葉を導き出すことがある。美術館という凄まじいエネルギーを持つ空間でのそうした体験を、僕は愛しているのだと思う。いくら価値のある作品でも、自分の身体や思考に影響を与えないものはどうでもいいのだ。結局僕は、自分のことにしか興味がないんだと思う。

 

 

 

 

フィリップス・コレクション展を観てきた。アメリカのダンカン・フィリップスさんが90年代に熱心に集めた作品群の展覧会で、ドラクロワシスレークールベ、モネ、ドガマティスゴッホピカソなどなど教科書でお馴染みの名だたる巨匠たちの絵が一堂に集められており、なんとも贅沢な空間に仕上がっていた。相変わらずふらふらと考え事をしたりぼーっとしたりしながら見ていたのだけれど、ふと思う。

ピカソやばくね?

この並びで観ていくと、明らかにこいつだけ異質である。いやだって、なんだあれ。やたらカクカクした馬と牛が、ありえない姿勢で頭とお尻を同時にこちらに向けている*1。もう体どないなっとんねん。一体どの角度から、どんな瞬間を切り取ったものなのか。というか本当に牛なのかも怪しいレベルだ。これがいわゆる「キュビスム」という画法だそうで、ある時期に一大ムーブメントとなって流行したそうだ。なるほど、巨匠さんとやらが考えることは僕みたいな一般人チンパンジーには理解できないってことね、はいはい、と半分拗ねながら観ていたが、同じくキュビスム創始者ジョルジュ・ブラックの作品に付いていた解説が目に留まる。

 

本作品においてブラックは、(中略)傾斜したテーブルの上のモティーフを複数の視点から同時に捉えている。*2

 

ああ、多次元になりたかったのか、と僕は勝手に納得してしまう。

たとえば僕らが生活している三次元の世界は二次元平面の世界が空間的に無数に重なってできたものだと考えると、僕らが両目で世界を見ている瞬間は常にその中から片目1枚ずつ、計2枚の平面映像を選んでそれらを重ね合わせて見ていることになる。ならばもっと多次元の世界でたくさんの目玉をつけて生活している未来人or宇宙人がいたとしたら、彼らは僕らの住む三次元世界が空間的にも時間的にも無数に重なってできた世界の中で、複数の視点の、かつ複数の時点の、三次元の映像を「同時に」見ることができるはずだ(映画『インターステラー』や『メッセージ』を観た人には分かってもらえるだろうか)。思うに、ピカソたちはそういう「視点」を描いたのではないか。そういう多次元の世界での「一瞬」を二次元の画面に投影してみせたのではないか。そう思うと、なんと合理的な手法だろう、と納得してしまったのだ。それは僕らのこの三次元世界のどうしようもない肉体限界を超えるための、極めて合理的で、知性的な試みなんじゃないか。

もちろんキュビスムの正しい解釈を知らないのでこれは勝手な妄想だけれども、僕にはどうもそれで、目の前の巨匠くんたち一同に親近感が湧いてしまった。たしかにそういう感覚、僕にもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「多次元になりたいんだよね」

ある飲み会の後、町田駅の連絡通路を歩いている時、酔っていた(自分に酔っていた)僕は後輩にこんなことを口走った。なんじゃそりゃ。キアヌ・リーブスかお前は。後輩の反応をあんまり覚えていないけれど、若干引いていた可能性は高い。

ただ字面の何とも言えぬイタさはさておき、素面の状態の今でもこのセリフは僕にとっては全く嘘のない言葉だな、と思う。僕は、多次元になりたいのだ。

 

幼い頃、少なくとも小学校低学年あたりには、僕はなぜか宇宙飛行士になりたかった。しかし、いつなりたいと思い始めたのか、なぜなりたいと思ったのかはよく分からない。「子供の頃ニュースで見た若田光一さんの姿がかっこよくて!」というようなありがちな記憶も特に思い当たらない。ただ当時からしっかりと感じていたのは、「宇宙はこんなにあり得ないほど広いのに、なんでこんな地上でチョロチョロ動いてるだけで一生を終えなきゃいけないんだ!」というどうしようもない不満である。我ながらいかついパンクマインドだ。でもこれもやはり、成人した今の僕にとっても全く嘘のない言葉だと思う。僕らはこの地球上で三次元空間を自由に動いているようでいて、広い目で見ればほとんど地上に張り付いて二次元的に動いているだけだ。スカイツリーに登っても、飛行機に乗っても、スカイダイビングをしても、重力は常に容赦なく僕らを縛り付ける。僕らの体は常に、「重力が働くほうが下」という意識から抜け出すことは出来なくて、多少上下に動いたり、地球の反対側に行ったりしながらも基本的には重力に垂直な方向にひたすらウロチョロしている。それは僕にとって、すごく残念なことに思えた。そのまま地球の重力だけに縛られたまま死んでいくのが悔しかった。だから僕は、真の意味での三次元を目指したのだ。上下という感覚すら無く、好き勝手に空中を漂うその肉体的自由に憧れたのだ。

ただ、僕の生まれた時代は少しだけ早かった。この時代に宇宙に行く選択肢は、10年に1度あるかないかの宇宙飛行士選抜試験を奇跡的な確率で通過するか、これまた奇跡的なレベルの大富豪になって宇宙旅行に行くかぐらいだろう。悲観的に見ているわけではないけれど、僕の体が健全なうちに宇宙に行く機会を得る確率は、かなり低い。僕は望むような肉体的自由を得られないまま死んでいくのだろうか。それは、とても残念なことだ。本当に悔しいことだ。

 

でも、だけど、それでも、と思う。

 

ピカソやブラックらが試みたように、僕らは精神的にはもっと多次元であれる。研究をして、本を読んで、短歌を作って、芝居を観て、サンドウィッチマンで笑って、ボクシングをして、友人とくだらない飲み会をして、僕はそのたびに新しい感覚・視点を手に入れる。そうして僕の思考の次元はまた少し上がる。それは0.0001次元ぐらいの差かもしれないけれど、それでも確実にそれまでの自分の思考次元ではたどり着けないような景色を見られるはずなのだ。僕はそうして、できるだけ遠くの景色を見たいと思う。この星にへばりついて一生を終えるやるせなさを抱えながら、せめて精神的には未来人並みの多次元生物でありたい、と思う。それは、この時代に生まれてしまった僕ができるせめてもの抵抗だ。なんとも、我ながらいかついパンクマインドだ。

やっぱり僕は、自分のことにしか興味がないんだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ZOZOTOWNの社長が月旅行をすると聞いたときにはくそー先を越された!と実は密かに拗ねていたのだけれど、実現すればそれはそれできっと刺激的な映像になるだろう、と楽しみでもある。様々な分野のアーティストも同乗するそうだけれど、一体だれを連れて行くんだろうか。しょーもない低次元生物連れていくとか言ったら許さないからな!