ハルに風邪ひいた

駆け出し宇宙工学者が気が向いたときに書く方のブログ

満たさずに、空洞

先日、表参道で奥山由之の写真展『君の住む街』を見てきた。今回の作品展は雑誌『EYE SCREAM』で組まれていた連載を再構成したものらしく、移ろいゆく東京の街並みを舞台に、今を時めく女優総勢35人の写真が並べられていた。なんでも全てポラロイドカメラで撮られたものらしく、まるで時間軸が溶け出したかのような独特の色味が印象的だった。

とまあ知ったように書いているのだが、実のところ写真展はあまり行ったことがなくて、実際に作品を観ている間も写真という表現自体の良さはよく分からないままだった。もちろん記録媒体としては非常に優れているけれども、その反面どうしても現実の世界をそのまま切り取るところからは抜け出せないので、絵画などよりも作者の表現が画面上に表れにくい気がしてしまうのだった。ひととおり観終わったあともモヤモヤしていたが、家に帰ってきてから今回の作品展についての奥山のインタビュー記事を読んでようやく納得がいった。

こちらがお願いした行動や表情の頂点に達したとき、人は目的を達成した故のになってしまって、それで終わり、固まるといったイメージになるんですね。そのを外れたの部分にこそ、人間らしさが出る。そこをとらえているかとらえていないかが、表現であるか否かだと思っています。もっというと写真であるか画像であるかの違いでもあると思います。*1

何かが完成してしまう前の中途半端で曖昧な瞬間を、そのままの形でつかまえる。なにものでもなくて、なにものでもある、そんな状態を丸ごと全部肯定してしまうのが「写真」なのである。

 

 

 

 

思い出すことがある。高校の頃、父にもらった言葉。

その時期は、勉強も部活も人間関係も、色んなことがなんとなくうまく回らなくなっていた頃だった。特に大きな失敗や挫折があったわけでもないのだが、何からどう手を打てばいいか分からず、そうしている間に状況はどんどん悪くなってしまった。自分で言うのもなんだが中学までは勉強も部活も人間関係も大体うまくいっていて、それを拠り所にして生きていた節があったので、急にその足場を失った僕は自分が何者であるのかよく分からなくなっていたのだった。

そんなある日、いつも通り父親が一人晩酌をしていて、父親と向かい合う形で僕はカレーを食べていた。父は(世の中のおやじの多分に漏れず)酔うと「お前ももう高校生かー、早いなあ」を連発するので僕はいつものように適当に返事をしていたのだけれど、ふいに父が「お前も兄ちゃんも立派に育ってくれて、本当に自慢の息子だよ」とこぼしたのだった。自分自身の価値として誇っていたものをすべて失って、自分の存在価値すら見出せなくなっていた情けない僕をそれでも受け入れて、存在ごと全て肯定してくれたその言葉は当時の僕には信じられなかった。その愛情が一体どこからやってくるのかよく分からなかった。よく分からないまま、ぽたぽたと落ちる涙で同じくよく分からない味になったカレーを僕はかきこんだのだった。

 

 

 

思い出すことがある。大学3年の頃、劇団の同期が語った言葉。

引退公演で作・演出を務めた彼女が終演後、劇団のブログで語った言葉だ。彼女は自らが作り上げたこの公演にはなんの意味も価値もなかったのだ、と言い放ったあとこう続けた。

意味も価値もなかったけれど そこには何かがありました その何かが何かはわかりません わからない わからないけれどわかったふりをしないぞ 無理やり名前をつけて扱いやすいものにはしないぞ わかったふりは楽だけど わからないままに抱きしめる強さを手に入れたい きっと意味より価値より大事でキラキラした何かです 一生忘れられない何かです なんだろうなあ わからないなあ*2

 

 

 

思い出すことがある。つい最近見た動画で、エレファントカシマシのボーカル宮本浩次が言っていた言葉。

動画は三年半ほど前に彼らが音楽番組に出演した際のトーク映像で、トーク中盤宮本が20129月に急性感音難聴になった話題が振られた。その中で宮本は入院中に左耳が聞こえない状態で散歩をしに行った時のことについてこう語っていた。

サラリーマンのみんながこうちょうどね、蕎麦屋で一杯やってんすよ。はあー、かっこいいーって。なんてキラキラしてるんだ、って。あの、羨ましくなっちゃって。そういうのは感じました。それからこう、みんなね、電車の中でパン食べちゃったりとかしてる人がいて、あんまり感じよくなさそうに感じるでしょ。でもね、ああー、パン食ってるよ、うあーかっこいい、みたいな。*3

 

 

 

 

 

僕は結局よく分からないのだ。全部よく分からないのだ。いつの間にか生きていて、いつの間にか言葉を話して、いつか必ず死ぬのだと言われて、よく分からないのだ。帰り道の電車の中のなんとなく空っぽな感じも、夕方の空の青紫色の危うい感じも、素晴らしい芸術がもたらす突き抜ける感じも、なにもかもよく分からないのだ。それでも、全て肯定するのである。日々どうしようもなく積み上げていく生活は決して完成することなく続いていくけれども、それを楽に扱おうとするのではなく、中途半端で曖昧なまま受け入れるのである。それはきっと意味も価値もないけれども、キラキラとしているのである。

 

 

 

 

 

  

時計を見たらもう朝の5時である。久しぶりに遅くまで書いてしまった。てかもうほとんど徹夜じゃないか。眠い。やばい、空明るい。そして明日は(てか今日じゃん)午前中から授業だ。いっそのことサボって昼まで寝ていたいけれども、よりにもよって課題提出日だから休むわけにはいかない。なんてこった。

あー、さっそく丸ごと全部否定したいよ。