ハルに風邪ひいた

駆け出し宇宙工学者が気が向いたときに書く方のブログ

ロッカーとザ・フーとマイジェネレーション

一昨日の夜、突然中学時代の同級生にFacebookで友達申請を送りまくった。とにかく送りまくった。当時話したことがある人にはもちろんのこと、中学時代にほとんど言葉を交わしたことのないような人にも、こちらが名前を覚えている限りとにかく友達申請した。ひとしきり申請すると間もなく数人から承認が返ってきて、そうするとまた「知り合いかも」の欄に同級生が現れて、また申請して、というのを繰り返した。そうやって半ば狂ったように申請ボタンを押しまくった後、ふと思った。

おい自分、なぜこんなことをしたんだ。

しばらく考えた。けどわからん。

あれれ、なぜこんなことをしたんだろう。

わからん。あれ、わからんぞ。

わからんけどなんだか急にやらなければいけないような気がしてしまって、そう思ったときには既にかなりの人に友達申請してしまっていた。もしかしたら申請を受けた同級生は「こいつ急になんやねん」と思っているかもしれない。いや、そう思っているに違いない。なぜなら当の本人が自分に対して「急にどうした」と思っているからだ。

急にどうした、自分。

 

 

先月の9日に、オーストラ・マコンドーという劇団の『息が苦しくなるほどに跳ぶ』という作品を観劇した。地方の高校生たちのある一日と、彼らが成人し30代になったある一日とがそれぞれ断片的に、群像的に描かれていくという物語。初めて観る劇団で、そもそもお世話になった先輩が出演しているからというだけの動機で観に行ったのではじめのほうはあまり期待もせず観ていたのだが、終盤にかけての展開と演出に完全にやられてしまった。それぞれの人間の脳にどうしようもなく張り付いている記憶が一斉に襲い掛かってきて、その圧倒的な身動きの取れなさ、手に負えなさに頭が真っ白になってしまった。あまりにも苦しくてエンディングでは舞台を直視できなくなってしまっていて、カーテンコールの拍手も出来ず、終演後しばらくただ呼吸をしながらぼーっとして、その状態のままアンケートを書いて、そうすると出演していた先輩が客出しで出てきてくれて、その先輩の顔を見た途端自分でもびっくりするくらい泣いてしまった。他のお客さんもたくさんいたのに、良い歳した男子大学生が突然泣き出して、先輩もさすがに困惑していた。僕もこの情けない状況をどうにかしなくては、と思ってとりあえず先輩に何度もごめんなさいと謝りながら、決して劇が気に入らなかったわけではないという旨を片言で伝え、劇場を後にした。帰り道にひとりで色々と考えたが、何が自分をああいう精神状態にさせたかは判然としないまま家に着き、疲れてそのまま寝てしまった。とにかく今まで僕自身があまり振り返ることのなかった部分の記憶をザクッと掘り起こされ、そのままぶちまけられたような感覚がしたことは分かった。

 

 

そういえば中学生の頃、上履きが5回ほど無くなったことがある。ある日登校したら上履きがロッカーに無くて、ありゃ、どこかに置いてきたっけと思ってたらその日のうちに全然身に覚えのないところに落ちてるのを誰かが見つけてくれて、まあ返ってきたのでいいか、と安心してたらまたある日の朝上履きがなくて、ありゃ、おかしいなと思ってるうちにまた見つかって、というのを数週間か数か月スパンで繰り返したのだった。3回目ぐらいの時に手洗い場で水浸しの状態で見つかった時にはさすがにちょっとだけ困ったけれども、なんだかんだ毎回誰かが見つけてくれて手元に返ってきた。別に上履き以外のものを盗られたということもなければ、誰かにいじめられていたという覚えもなくて、ただ純粋に上履きだけが5回無くなった。本当にそれだけだった。特に詮索する気もなかったので真相は分からないままだ。もしかしたら誰かの反感を買って標的にされていたのかもしれないし、あるいは僕のロッカーがちょうど良い位置にあって、たまたまいたずらに使われたのかもしれないし、僕が自分でも自覚がないほどのうっかり坊やで、毎回自分で上履きを放置して帰っていたのを忘れていただけかもしれない。真相はもう分からないのだけれど、少なくとも言えることはこういうことが僕だけでなく学校中色々な人の身に毎日のように起こっていたということだ。誰かが誰かを恨んだり、何かに理由もなく絶望したり、ちょっとしたことで死ぬほど嬉しくなったり、かと思ったら何の感情も抱いていなかったり、そういうことが毎日毎日、学校全体で渦巻いて、いや、渦なんかよりもっと混沌とした状態で混ざり合っていて。その中にいる間はそんなこと考えていなくて、というかそういうことを意識する余裕はなくて、ただその空間で毎日生きて、自分でも制御しきれない自分をそれでも自分として保ちながら過ごしていたのだと思う。オーストラ・マコンドーを見た時に感じたのは、多分そういう空間の圧倒的な身動きの取れなさ、手に負えなさなのだと思う。もちろん記憶のバイアスは大いにかかっているだろうけれど、この歳になってようやくそういうことを外から意識できるようになったのだと思う。

 

 

かれこれこの二日間で、友達申請を送った同級生30人ぐらいから承認が返ってきた。写真を見るとみんなの顔はすっかり大人になっているし、手にはお酒を持っているし、中には結婚してつい最近子供を産んだ人もいるようだし、やはり避けられず大人になっていることを実感する。ただ、どうせ僕が一方的にしか覚えていないだろうと思っていた人からも意外と承認が返ってきたことと、同級生たちの投稿を見ると今でも中学の頃の仲間で遊んだり旅行したりしていることに驚いた。中学一年生から数えてもうすぐ10年が経とうとしていて、それはもう完全に過去の出来事のように思っていたけれども、意外にもあの頃と今は時間的にも空間的にも繋がっているようだ。遠い昔の出来事でなく、確実にあの時間の真ん中を僕らは生きていたのだと感じる。

 

 

 

久しぶりにギターが弾きたくなって、銀杏BOYZの『なんとなく僕たちは大人になるんだ』を弾いた。 

ああ なんとなく僕たちは大人になるんだ

ああ やだな やだな

なんとなくいやな感じだ

まだ自分の中でも大部分は言語化できていなくて、狂ったように友達申請した理由もよく分かっていなくて、多分一年後にはまた違うことを考えているのだろうけれど、まあなんとなく、なんとなーくね。

 

https://www.youtube.com/watch?v=3TYZJA28Cic