甘納豆のうふふふふ

初回投稿の懸念は杞憂となり、無事に第二回の投稿。ただいま、おかえり。

 

 

最近、短歌にハマっていて、「新鋭短歌シリーズ」という現代短歌の歌集シリーズをちょこちょこと読んだり、面白い7文字と5文字が頭に浮かんだときは自分で作ったりしています。なんで今頃短歌なんだ、と思うかもしれません。うん、僕もなんで今頃短歌なんだ、と思っている。

昔、中学校で習ったときには俳句にしろ短歌にしろ、やたらと「~麻呂」とか「~皇子」とかいう名前の人が「蹴鞠が飛んで行ったなあ、雅なり、オホホホホ」みたいな、現代っ子にはとても共感できない内容のことを歌っているイメージ(勝手な偏見)だったし(その割によく分からず暗唱とかさせられるのでますます印象は悪かった)、かと思ったら現代の俳句や短歌に近づくにつれて先生は「最近の作品は価値観も様々でカオスだから解釈がむずかしいのだ~」みたいなテンションであんまり熱心に解釈とかしてくれないもんだから、「ああ、俳句とか短歌って終わった文化なのかなあ」と思っている節があったのかもしれない。

いやしかし中学の先生よ!現代の作品面白いじゃないか!もうちょっと教えてくれても良かったのに!

でもこの話を先日先輩にしたら「わたしは学校の国語の授業で習った短歌面白いと思ったけどなー」って言っていたから、届く人にはちゃんと届いているらしい。先生は悪くない。

 

 

 

学生時代に習ったもので唯一はっきりと覚えているのが、高校時代にY先生が授業で教えてくれた、

三月の甘納豆のうふふふふ

という坪内稔典の句。たしかY先生がある日授業が始まるなり突然、この句を自由に解釈してくださいと言ってみんなに白紙を配ったのだったと思う。周りのみんなは「こんなんテキトーに『うふふふふ』とか言ってるだけだろ」と愚痴をこぼしていたけど、僕はなんだか妙に惹かれるものを感じて、あれこれと考えて楽しく白紙を埋めたのを覚えている。

 

 

 

 

僕は普段から自分の思っていることについて長く話すのが苦手で、というか、同じ意味内容を相手に伝え得るならば出来るだけ言葉は削ぎ落して伝えたいと思ってしまう癖があるので、慎重に慎重に言葉を選んでしまう(そして大体こちらが言い切る前にしびれを切らされて相手に話を持っていかれてしまう)。それは多分、言葉にしたり名前をつけたりすることで失われてしまう色んなものをなるべく減らしたいという思いからくるのだと思う。例えば僕らは道を歩いているだけでも、風が手の甲に当たる感覚とか、信号待ちをしている人のイヤホンから漏れてくる音とか、交番の前を通る時だけ明らかに姿勢をよくする自転車のおじちゃんとか、他にも数えきれないほどのものを感じているのに、それを「道を歩いた」という言葉だけで済ませてしまうのがどうも惜しい気がしてならないのだ。

そして、俳句や短歌はこの「どうも惜しい気がする」を、それでも乗り越えていく芸術だと思う。自分が心動かされたことについて、もし仮に究極的に言葉を尽くすことができればその感動をそっくりそのまま伝えることができるのかもしれないけれど、でもそれは不可能で、むしろ言葉にすればするほどどんどんと薄れてしまう景色があって、だからこそあえて17文字や31文字のギリギリの景色だけを見せる。言葉を打ちとめる。「道を歩いた」だけで風の感覚や音漏れや自転車のおじちゃんまで失わずに伝えようとするわけだ。

僕が今頃になって短歌にハマったのはきっとそういうところで感覚が通じたからだ。中学の頃先生が一生懸命教えていたのも、もしかしたらこういうことだったのかもしれない。

 

 

 

 

木下龍也さんという方の「つむじ風、ここにあります」という歌集が最近読んだ中では一番面白かった。

「かなしい」と君の口から「しい」の風それがいちばんうつくしい風

とか、うーん、良いなあ。こう、色々と解釈してもいいのだけれど、解釈すればするほど色んなものが失われていく気がするのでやーめた。