ハルに風邪ひいた

駆け出し宇宙工学者が気が向いたときに書く方のブログ

あっと、さっと、アットホーム

今月末に引っ越す部屋を決めるため、新居の内見に行ってきた。これまでの四年間は大学周辺に住んでいたのだが、土地代が(無駄に)高いエリアだったので家賃の割に環境があまり良くなかった。三年生の夏まで住んでいた家は陽当たりがすこぶる悪く、自分が住んでいるのかカビが住んでいるのかよく分からない状態だったし、今の家は水回りが異常に詰まりやすく、雨が降ると数日間ベランダが水浸しのままになるというプール付き住宅だ。おもしろ物件ハンターになった覚えはないぞ。今度住む場所は都心からはかなり離れるので、家賃もぐっと安くなるし部屋の環境も今よりは良くなるだろう(と願いたい)。

三軒内見してきたのだがどの部屋も申し分ない感じだった。駅からは近いし、陽当たりも良いし、周辺も静かだ。一軒目、二軒目あたりまでは「今日の決断でこの先のQOLが決まるんだぞ!」と一生懸命見ていたのだが、まあこれといって特にこだわりも無いし、三軒目の室内を見ている時には正直プールさえなければどこでもいいやーと思っていたのだけれど、三軒目の室内をひととおり見終わって玄関のドアを開けた瞬間目の前に青い空がバッと飛び込んできて、その次の瞬間に「あっ」と思った。三軒目のその部屋だけが最上階で、部屋の前から空が見えるのだ。「あっ」というのは「あっ、良い」でも「あっ、きれい」でもなくただ「あっ」だった。一瞬だったけれど、でも確実に「あっ」だった。

結局新居はその部屋に決めた。他にも良い点、悪い点はあったのだけれど結局あの瞬間の「あっ」がほぼ全てで、もうそれ以外は考えられなかった。今あえて言語化すれば「朝出かける時に気持ちがいいんだろうなあ」とか「夜帰ってきたときに星が見えるから良いなあ」とかそういうことなんだろうと思うけど、どれだけ言葉を尽くしてもやっぱりあの瞬間の「あっ」には勝てそうもない。もしかしたら住んでみたら実はアリさんが住んでるとか、幽霊が出るとかおもしろ要素が出てくるのかもしれないけれど、それでもあの空を毎日見られるならまあそれでもいいかと思えるような気がする。もちろんアリさんはいないでいてほしいけど。

 

 

 

 

ところでなぜ引っ越すのかというと、4月から相模原の研究室に移ることになったからである。うちの学科は大学院入試に受かったあとにそのまま今のキャンパスに残るか、もしくは柏や相模原(いわゆる僻地)に移るかを選ぶことになるが、内部進学者はほとんどがそのまま今のキャンパスに残ることを選ぶ。もちろん入試の点数が悪かったら残りたくても残れず島流しの刑に遭うこともあるが、僕はそんなに悪い点でもなかったにも関わらず相模原に移ることを選んだので、言ってみれば自らボートを漕いで無人島に乗り込んでいく物好き野郎だということになる。そんなわけなので「なんでわざわざあんな遠いところまで行くの?」と聞かれることが多い。

去年の4月頃、一度個人的に研究室のあるJAXAの相模原キャンパスを見学しに行ったことがあった。相模原キャンパスに入るのは初めてだったので、ついでに一般客も入場できる展示スペースを見ようと楽しみにしていたのだが、展示スペースに入った瞬間に思わず息を吞んだ。そこには原寸大の『はやぶさ』の模型が置いてあった。はやぶさのプラモデルは持っていたし、サイズもデータとしては知っていたのだけれど、目の前で悠々と太陽電池の翼を広げたその姿は想像をはるかに超えて圧巻だった。世界の宇宙機の中で見ると、はやぶさはむしろ小型の部類なのだがそれでもこの迫力である。その模型を目の前にしたとき、僕は「あっ」と思った。「あっ、すごい」でも「あっ、かっこいい」でもなく、ただ「あっ」だった。それからしばらく何も考えずその模型を眺めていた。そうやってぼーっと眺めたあと「この一部分でも自分が開発したものが搭載されて宇宙に飛んで行ったら僕はきっとすごく嬉しいだろうな」ということをポツリと思ったのだった。

最終的に研究室ははやぶさの元プロジェクトリーダーである川口淳一郎先生の研究室を選んだ。研究室を決めるにあたって色々なことを考えたのだけれど、やっぱりあの時の「あっ」がほぼ全てで、それを超えるものは何も無かったように思う。今は往復4時間ほどかけて研究室に通わなきゃいけなかったり色々と大変なことはあるのだけれど、それが驚くほど全然苦にならないのは、研究室に向かう通路の途中にあるあのはやぶさの模型を毎日見るたびに、まあこれが見られるならいいか、と思えるからだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そういえばこの前の3月まで、インプロというものをやっていた。インプロとは”Improvisation”の略で、「即興」の芝居という意味である。その名の通り、セリフもあらすじも何も決まっていない状態でお客さんの前に立ち、演技をしながらストーリーを紡いでいくというものだ。日本ではまだあまり知名度が無いが、海外ではかなりメジャーなパフォーマンスのひとつになっているらしい。

インプロでは当然次に何が起こるか、誰が何を言うかなどが一切決まっていないのでその一瞬一瞬に各々が決断を下して前に進んでいく必要がある。やってみるとわかるがこれはとても難しいことで、同時にめちゃめちゃ怖いことである。上手くいく根拠など何一つない状態で、自分がなんとなくその時に思ったことを信じて前に進む。つまり「あっ」を見逃さず、捕まえて実行するのである。大学三年の秋にインプロに出会って以来すっかり僕はその魅力にハマって、片っ端からインプロの本を読み、四年生になってからは劇団しおむすびというインプロ劇団にも所属した。

そんなある日、稽古中にふと「あっ」と思ったことがあった。「あっ、自分はここじゃない」と思ったのである。劇団の中にはプロの役者として、プロのインプロバイザーとして食べていけることを志している仲間もいて、そんな彼らと真剣に付き合うようになった時にふと「自分は一体何なんだろう」「彼らが目指している場所と僕が向かいたい場所は違うんじゃないか」と思ったのである。そしてそれは小さな小さな「あっ」として現れたのだった。それは非常に小さかったけれども、見逃すことはなかった。見逃すことは出来なかった。「あっ」を捕まえる稽古をしているうちに、決定的な「あっ」を捕まえてしまったのだ。インプロを辞めようと決心したのはそれからほどなくしてからである。色々と考えたけれども、やっぱりその小さな小さな「あっ」に勝るものはなかった。大好きなインプロを学んだ結果、そのインプロを辞めることになったのは皮肉だった。皮肉だったけれども、そのおかげで本当に自分が目指したいものをはっきりと掴むことができた。僕は宇宙を目指したいということ、そのために劇団を辞めたいということをみんなに伝えた。幸い、みんなは僕が事情を話すと快く受け入れてくれて、背中を押してくれた。彼らは今でもとても大切な仲間で、僕は心から感謝している。

 

 

 

 

決断というのは選択肢を捨てることだ。この先どうなるか何にも分からない状態で、分からないままに選び取ることだ。その選択はいつも言葉での理解を超えたところで起こる。それはとても怖いことだけれど、それでも僕は見逃さないように、あっという間に過ぎていく「あっ」を捕まえたいなあ、と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて引っ越し先も決まったわけだけど、相変わらず部屋が片付かない。というかこれもうどこから手付ければいいかわからん。内見中に不動産屋のおにいさんに部屋が片付かないんですよねー、と軽く言ってみたら「ぜひ断捨離してください」とバッサリ斬られた。はい、ここでも決断しろということなんですね。とほほ。

満たさずに、空洞

先日、表参道で奥山由之の写真展『君の住む街』を見てきた。今回の作品展は雑誌『EYE SCREAM』で組まれていた連載を再構成したものらしく、移ろいゆく東京の街並みを舞台に、今を時めく女優総勢35人の写真が並べられていた。なんでも全てポラロイドカメラで撮られたものらしく、まるで時間軸が溶け出したかのような独特の色味が印象的だった。

とまあ知ったように書いているのだが、実のところ写真展はあまり行ったことがなくて、実際に作品を観ている間も写真という表現自体の良さはよく分からないままだった。もちろん記録媒体としては非常に優れているけれども、その反面どうしても現実の世界をそのまま切り取るところからは抜け出せないので、絵画などよりも作者の表現が画面上に表れにくい気がしてしまうのだった。ひととおり観終わったあともモヤモヤしていたが、家に帰ってきてから今回の作品展についての奥山のインタビュー記事を読んでようやく納得がいった。

こちらがお願いした行動や表情の頂点に達したとき、人は目的を達成した故のになってしまって、それで終わり、固まるといったイメージになるんですね。そのを外れたの部分にこそ、人間らしさが出る。そこをとらえているかとらえていないかが、表現であるか否かだと思っています。もっというと写真であるか画像であるかの違いでもあると思います。*1

何かが完成してしまう前の中途半端で曖昧な瞬間を、そのままの形でつかまえる。なにものでもなくて、なにものでもある、そんな状態を丸ごと全部肯定してしまうのが「写真」なのである。

 

 

 

 

思い出すことがある。高校の頃、父にもらった言葉。

その時期は、勉強も部活も人間関係も、色んなことがなんとなくうまく回らなくなっていた頃だった。特に大きな失敗や挫折があったわけでもないのだが、何からどう手を打てばいいか分からず、そうしている間に状況はどんどん悪くなってしまった。自分で言うのもなんだが中学までは勉強も部活も人間関係も大体うまくいっていて、それを拠り所にして生きていた節があったので、急にその足場を失った僕は自分が何者であるのかよく分からなくなっていたのだった。

そんなある日、いつも通り父親が一人晩酌をしていて、父親と向かい合う形で僕はカレーを食べていた。父は(世の中のおやじの多分に漏れず)酔うと「お前ももう高校生かー、早いなあ」を連発するので僕はいつものように適当に返事をしていたのだけれど、ふいに父が「お前も兄ちゃんも立派に育ってくれて、本当に自慢の息子だよ」とこぼしたのだった。自分自身の価値として誇っていたものをすべて失って、自分の存在価値すら見出せなくなっていた情けない僕をそれでも受け入れて、存在ごと全て肯定してくれたその言葉は当時の僕には信じられなかった。その愛情が一体どこからやってくるのかよく分からなかった。よく分からないまま、ぽたぽたと落ちる涙で同じくよく分からない味になったカレーを僕はかきこんだのだった。

 

 

 

思い出すことがある。大学3年の頃、劇団の同期が語った言葉。

引退公演で作・演出を務めた彼女が終演後、劇団のブログで語った言葉だ。彼女は自らが作り上げたこの公演にはなんの意味も価値もなかったのだ、と言い放ったあとこう続けた。

意味も価値もなかったけれど そこには何かがありました その何かが何かはわかりません わからない わからないけれどわかったふりをしないぞ 無理やり名前をつけて扱いやすいものにはしないぞ わかったふりは楽だけど わからないままに抱きしめる強さを手に入れたい きっと意味より価値より大事でキラキラした何かです 一生忘れられない何かです なんだろうなあ わからないなあ*2

 

 

 

思い出すことがある。つい最近見た動画で、エレファントカシマシのボーカル宮本浩次が言っていた言葉。

動画は三年半ほど前に彼らが音楽番組に出演した際のトーク映像で、トーク中盤宮本が20129月に急性感音難聴になった話題が振られた。その中で宮本は入院中に左耳が聞こえない状態で散歩をしに行った時のことについてこう語っていた。

サラリーマンのみんながこうちょうどね、蕎麦屋で一杯やってんすよ。はあー、かっこいいーって。なんてキラキラしてるんだ、って。あの、羨ましくなっちゃって。そういうのは感じました。それからこう、みんなね、電車の中でパン食べちゃったりとかしてる人がいて、あんまり感じよくなさそうに感じるでしょ。でもね、ああー、パン食ってるよ、うあーかっこいい、みたいな。*3

 

 

 

 

 

僕は結局よく分からないのだ。全部よく分からないのだ。いつの間にか生きていて、いつの間にか言葉を話して、いつか必ず死ぬのだと言われて、よく分からないのだ。帰り道の電車の中のなんとなく空っぽな感じも、夕方の空の青紫色の危うい感じも、素晴らしい芸術がもたらす突き抜ける感じも、なにもかもよく分からないのだ。それでも、全て肯定するのである。日々どうしようもなく積み上げていく生活は決して完成することなく続いていくけれども、それを楽に扱おうとするのではなく、中途半端で曖昧なまま受け入れるのである。それはきっと意味も価値もないけれども、キラキラとしているのである。

 

 

 

 

 

  

時計を見たらもう朝の5時である。久しぶりに遅くまで書いてしまった。てかもうほとんど徹夜じゃないか。眠い。やばい、空明るい。そして明日は(てか今日じゃん)午前中から授業だ。いっそのことサボって昼まで寝ていたいけれども、よりにもよって課題提出日だから休むわけにはいかない。なんてこった。

あー、さっそく丸ごと全部否定したいよ。

香るカオスと午前23時

23日になった。23歳になった。

昨晩考え事をしながらぼーっと風呂に入っていて、気が付いたら23歳になっていた。風呂には時計もないので特に実感もなく一つ歳を取ってしまったわけだが、自分が生まれた日を生まれたままの姿で迎えるというのもまあ悪くないかな、ということにしておく。

ありがたいことに既に数人の友人からお祝いの言葉をもらった。僕が人の誕生日を全くといっていいほど覚えないので(先日も母親の誕生日をすっぽかして拗ねられた)、律儀にお祝いしてくれる人がいてくれるのは本当にありがたいことだなあ、と思う。どうもありがとうございます。

 

 

 

 

 

ここ一ヶ月ほど何も書いていなかったので、「あいつもうブログ飽きやがったな」と思われているかもしれないが意外とそうでもなくて、むしろ毎日毎日何を書こうか忙しく考えているのである。実際風呂の間も一時間半ほど浴槽に浸かって指がふにゃふにゃになるぐらいには色々と考えていた。書くことはほとんど無限にあるのだ。じゃあ何か書けよと言いたいところだが、残念ながら今は脳みそがカオティック状態で、器用にまとめるほど整理できていない。この一ヶ月はせわしないことに別れの季節であったり出会いの季節であったりしたので、色んな思考のタネが脳に入力されて、それらをなんとか体系づけて捕まえてやろうと、ああでもない、こうでもない、ああいうことだろうか、いやこういうことだろうかと考えるけれども思考はどんどん膨張するばかりで、結果考えれば考えるほどさらに取っ散らかってしまうのだ。これはもう仕方がない。仕方がないというか、もうこれって宇宙だ。ビッグバンが起こって、インフレーションなるカオティック状態に突入して、宇宙はどんどん膨張していく。宇宙全体の質量が臨界値より大きければやがて膨張は止まってまた一点に収縮していくし、質量が足りなければいつまでも膨張は止まらず、銀河はてんでんばらばらで死んでいく。ただ宇宙と違って脳みそが厄介なのは、質量があれば勝手に万有引力が働くわけではなくて、「考える」という外力を作用させないと個々のタネは相互作用しないということだ。どんどん入力されてくるタネを放っておいても結局死んでしまうのだ。というわけで考える。考えながら相互作用を増やしていって、ある時点で臨界値に達すれば突然思考がまとまっていくのだろう。

というわけでしばらくはまた何も書かないかもしれない。

 

 

 

 

 

ところで脳みそが宇宙なのだとすると、もしかしたら僕らがいるこの広大な宇宙も超巨大な生き物の脳みその一部だったりするんじゃないかと思う。「そんなの、その生き物がマキシマムザホルモン聴いてヘドバンでもしたら銀河級の大地震が起こっちゃうじゃないか」と言われるかもしれないが、相対性理論によれば時間の感じ方は人によって違うので、そいつがヘドバン一回する間に宇宙が丸ごと一つ生まれたり死んだりするなんてことも説明できるんじゃなかろうか。実際、巨大質量のブラックホールに落ちている人から見たら、外の世界って何億倍も速いスピードで過ぎていくように見えるらしいよ。いや落ちたことないから分からないけどさ。そしたら逆のことも言えるかもしれなくて、僕らの脳とか体の細胞一つ一つも実はその内部で確認できないほど小さな生き物たちがものすごいスピードで生活してたりするんじゃなかろうか。そう思うとなんだか自分の細胞一つ一つにも愛着が湧いてくる気がする。バカバカしい説だと思うかもしれないが、人間はもともと一つの細胞で、それがだんだん細胞分裂していつの間にかこんなに大きな生き物になるなんていう説明の方が僕にはよっぽど実感が持てないので、こういう説もあっていいと思う。

 

 

 

 

 

さて案の定今日もまた順調に思考が取っ散らかった。お昼ご飯はセブンイレブンのケーキでも買って密かに生誕祭をやろうと思う。

迷えるラム肉たち

インド旅行に行ってきた。友人二人とともに二週間ほど北インド南インドの数か所を見てまわり、昨日帰ってきた。初日にいきなりお金をぼったくられたり、自分たちで雇ったはずのタクシー運転手から逃げるはめになったり、インド人と列車の席交渉で大混乱になったり、狂犬病かもしれない野良犬に全速力で追いかけられたり、まあ振り返ってみると数々のトラブルがあった。ただ、空港でWi-Fiをレンタルしていたおかげで困ったら何でもネットで調べられたのとGPSで常に現在地は確認できたのとで、特に飛行機に乗り遅れたり迷子になったりすることもなく、全体的には安全な旅だったなあと思う。そういう物が一切なかった時代の旅行者たちは全て自力でこなしていたと思うと、こりゃすごいな。

 

インドは汚かった。みんなゴミを道に捨てるし、道端に牛がたくさんいるから糞がいっぱい落ちているし、道路が整備されていないから砂埃が舞って店の商品が砂まみれだった。インドはカオスだった。列には全く並ぶ気が無いし、交通ルールはただ一つ「ぶつからなければOK」という精神で運転するし、なんならちょっとぶつかってたから「壊れなければOK」だった。インドは貧しかった。駅や観光地など人の集まるところには物乞いがたくさんいるし、タクシーで路地に入ると子供たちが数人でとおせんぼしてお金を要求してきた。そんな状況で、インド人は生きていた。当然のように生きていた。当然であり、それはとても自然に見えた。人間がいて動物がいて、あまりにもリアルに、そして力強く彼らは生きているのだった。そんな彼らを見ていると『あれ、自分はいまどこにいるんだ?』と思ってしまう。汚いって何だ、カオスって何だ、貧しいって何だ、幸せって何だ。僕の基準の方が実は異常で、彼らの方が普通なんじゃないか。僕は今どこにいるんだ。世界の中でどういう位置づけにいるんだ。そんなことを考えながら、考え疲れて、気付いたら日本に帰ってきていた。結局自分の現在地は分からないままである。あんなにGPSを駆使して無事に帰ってこられたというのに、やっぱり迷子である。

 

 

 

自宅に帰ってくると、当たり前だが出発した時のまんまの(汚い)部屋だった。所属していた劇団の引退公演が終わった翌日にインドに飛び立ったので、机の上には差し入れやら衣装やらが置きっぱなしになっていた。そうか、そういえば劇団を引退していたのだった。大学四年間、自己紹介のときにはとりあえず「演劇やっています」って言っておけばよかったのだけれど、気付いたらもうそれも言えなくなっていた。僕は四月からなんて自己紹介すればいいんだろう。「えーっと……休みの日はYoutube見たりギターを弾いたりとかですかね……あ、いや特にバンドとかやってるわけでもなくてその……はい、まあ何もしてないですね……」

 

やっぱり迷子である。

ダースベイダーの一族

部屋が汚い。片付けがとても苦手だ。

いま数秒見回しただけでも数十個のペットボトルと空き缶がキッチンに積んであるのと、コンビニのパスタの容器が床に落ちているのが確認できた。冷蔵庫の中で半年近く放置した大根が変わり果てた姿(里芋のようなフォルム)で横たわっているのも知っているが、とりあえずはそっとしている。家にアリさんが大量発生し、ポテトチップスでおびき寄せながら巣を特定したのもつい最近の話だ。大学一年の頃に自宅のベッドの下から焼きししゃもが発見され、しばらく僕の家が「釣り堀」と呼ばれていたのも今となってはいい思い出(ということにしたい)。

でも、そもそも統計力学のエントロピー増大則を考えれば、あらゆるものがきちんと整理された状態なんてのは系として不自然に決まっているわけで、逆にあらゆるものが乱雑に置かれている方が状態として自然なはずだ。だから綺麗好きな人の方がこの宇宙では異常な存在なんだ!僕はなんにも悪くない!

 

 

 

 

 

 

「僕ら人間って何のために生きていると思います?」

大学一年の生命科学の講義で、教授が突然こう問いかけた。急に飛んできたまさかの哲学的問いに対して理系学生たちが沈黙を決め込む中、教授は少し置いてこう続けた。

「宇宙をなるべく早く滅ぼすためです。」

ダースベイダーかお前は、と言わんばかりの回答に当然学生一同唖然としていたわけだが、彼はいたって冷静に続けた。例のエントロピー増大則によれば、放っておけばこの宇宙はどんどん無秩序でバラバラな状態に向かっていく。その宇宙にわざわざ生命体という秩序を持った存在が生まれたのは一見矛盾しているように見えるけれども、あえて生命体という秩序を間に挟むことで宇宙はさらに無秩序に向かうことができるので結果的にはむしろ合理的だというのだ。ちょうど瓶の中の水をブチまける時、出口のところに渦という局所的な秩序を発生させた方がむしろ早く水をブチまけられるのと同じ構造である。僕らが生命体として秩序だっているほど、周りの世界は無秩序になっていく。宇宙レベルで見れば、僕ら人間を含めた生命体はせっせと宇宙を崩壊へ導くための存在でしかないのだ。

 

 

大学構内を歩きながら、たまに意識して建物を見ると、なんて秩序だっていて美しい建物なんだ、と思うことがある。いや、正確には美しすぎて嫌悪感を抱いてしまう。どれも寸分狂わぬ直線と直角たちで構成されていて、そこにはもうほとんど無駄が無い。それを改めて認識した途端、あれれ、何百年か前はここには木や草しかなくて直線なんか一本も無かったはずなのに、なんで今こんなに直線だらけになっているんだ?と脳みそがびっくりして、混乱して、そんなことを考えながら研究室に戻ると、今度は本棚に専門書が隙間なく真っすぐ並べられていて、またもや無数の直線と直角たちが脳に追い打ちをかけてくる。どうやら周りの世界が秩序だっていると、むしろ僕の脳みそはどんどん無秩序になってしまうようである。

 

 

人間は世界を無秩序にするために生命としての秩序を保っていて、ひとたび自分の秩序が保たれると今度は世界まで秩序だてようとするのだけれど、そうするとその秩序だった世界によって結局自分が無秩序になってしまうという、この、皮肉。どうやっても世界か自分のどちらかはいつも無秩序になってしまうのか。そう思うと、僕がこの部屋をなすがままにしているのは、生命体として自分の秩序を保つのには合理的で、やっぱり僕はなんにも悪くない!とたちの悪い確信はがぜん強まった。