ハルに風邪ひいた

駆け出し宇宙工学者が気が向いたときに書く方のブログ

マクスウェルの悪魔

数日前、一枚の絵のことを思い出した。高校の頃の行きつけのラーメン屋に飾ってあった一枚の油絵。行きつけといってもお金がなくて仕方なく行っていただけで、正直なところ味はさほど美味しくなく(チャーシューがなぜかチョコレートのような味がする)、店主はいかにもといった感じの不愛想な頑固おやじなので居心地もあまりよくなかったのだが、その油絵だけはなんとなく好きで、他の客がいないときはなるべくその絵の近くに座って見ていた。川に橋が架かっていて、その下を一艘の船が通っており、岸の方にはヨーロッパ風の街並みが見えるといった絵で、まあこれといって別に大した絵ではないのだが、その橋に陽が当たってできた陰と日向の境目に淡い紫色の光の筋が数本差していて、その紫色がなんとも絶妙に淡くてきれいなのだった。水が紫色というと不思議な感じもするが、その時はなんだか妙に納得してしまって、たしかに白色光にはあらゆる色の光が混ざっているんだからそりゃあ紫に光ったっておかしくないよなあ、と思ったのを覚えている。ふとこの絵のことを思い出して、あの紫色をまた見てみたいなあと一瞬思ったのだけれど、よく考えたら毎日見ている陽の光にも、そしてなんなら僕の部屋のこの蛍光灯の光にもあらゆる色の光が含まれているはずで、あの紫色もきっと含まれていて、だから本当は毎日あの紫色は僕の目に入ってきているんだなあ、と思った。

 

 

似たようなことを一年ほど前にも思ったことがある。上野の東京都美術館の『モネ展』を観に行った時だ。高校の頃からモネの絵は好きで、世界史の資料集に載っている絵をたまにじーっと見ていた。念願の本物のモネの絵が観られるということで非常に期待して観に行ったのだが、その期待を大きく上回る展示だった。有名なサン=ラザール駅の絵や睡蓮の連作をはじめとして、あまりにも鮮やかで繊細なタッチの絵の連続に終始興奮しっぱなしだった。中でも圧巻だったのが、晩年の作品。『バラの小道』や『日本風の太鼓橋』などのモティーフが、見たこともないぐらい鮮烈な赤で繰り返し描かれ、それはそれはものすごい迫力だった。解説を見て驚いたのだが、なんと晩年の彼は白内障を患っており、ほとんど視力を失っていたそうだ。数回の手術を受けてからは幾分か回復したらしいが、実際にどれほど色を識別できていたのかはよく分かっていない。とすると彼はもしかしたらほとんど真っ白に濁った景色を目の前にしながらあの鮮烈な赤を描き出していたのかもしれなくて、そう思うと自分はこんなにはっきりと世界を見ておきながら、そこにあるほとんどの色を見逃して生きているような気がしてしまった。展示室を出て、さっきは何とも思わずに通り過ぎた景色を前に、果たしてモネはこの景色をどんな色で描くのだろう、と考えた。コンクリートがあって、木があって、自動販売機があって、人が歩いていて、それらを陽の光が照らしていて。何の変哲もない景色に思えるけれども、そこにはやはりあらゆる色が含まれているはずで、きっとモネが描いたあの鮮烈な赤もたしかに存在しているはずなのだ。

 

 

毎日毎日僕の目にはありとあらゆる色が飛び込んできているのに、そこにあるはずの絶妙な紫や鮮烈な赤をどうしても見逃してしまう。それは、目の前の人間をなんとなく見ているだけではその人の魅力を全然知れないことにも似ていると思う。先日の追い出しコンパでも、劇団同期と朝まで酒の勢いで色々なことを話したのだが、聞く話どれもが初めて知ることばかりだった。座右の銘が何だとか、劇団を辞める時に何を考えていたかとか、この先の人生で何をやりたいかとか、どれも僕が全然考えたことない話でとても魅力的だった。劇団にいた頃、あんなにずっと同期のことを見ていたつもりだったのに、僕はその人が何を考えているのか全然知らない。見ているつもりでも当時どこかで「あの人はああいう人だ」と処理していた節が少なからずあったのだろう。話してみればみんな様々な経験とそれに対する考えを持っているはずで、そのどれもが僕にとってすごく魅力的で、言ってみればもうみんな魅力の塊みたいな存在なのに、その塊をただ見ているだけでは何にも気付けないのだ。白色光を分解すれば虹色で、だから僕はいつでも虹を見ているはずなのに、それを一遍に目に入れてしまえば何にも気付けないのだ。それはなんだか悲しいことだ。

 

 

 

 

そういえば大学一年の頃、劇団の稽古場ブログにこんなことを書いたことがあった。

幸せというのは、家族みんなで遊園地に行って遊ぶことではなくて、家族みんなで遊園地に行って遊んでいる時に服に付いた汚れのことだと思います。

幸せというのは、友達と修学旅行に行くことではなくて、修学旅行に行った時に食べたアイスクリームのコーンのことだと思います。

幸せというのは、好きな人と手をつなぐことではなくて、好きな人と手をつないでいる時に足元に転がっている小石のことだと思います。

 

  

だとすると、うちの玄関に置いてある靴のつま先がペンキで汚れていることも多分幸せです。

 

だから僕の周りは、幸せでいっぱいです。*1

 

僕が生きている世界は幸せで満ちていて、それを毎日受け取っているはずで、でもその幸せを一度に受け取っても何にも気付けなくて、だから、ほんの少しの幸せをひとつずつ積み重ねていくしかないのだ。大学一年の頃から意外にも今と同じようなことを考えていて、もしかしたらとっくの前から分かり切っていることを何度も再確認しているだけなのかもしれないな。

 

なるべく小さな幸せと なるべく小さな不幸せ

なるべくいっぱい集めよう そんな気持ち分かるでしょう*2

 

分かるぜー、ヒロト

 

youtu.be

たとえば兄が死んだら

風邪を引いている。症状自体は大したことないのだが、これが精神的には結構くるものだ。まず、喉の痛みが絶妙に不快で、じわじわと、しかし着実に精神的攻撃を仕掛けてくる。ちょうど耳元で虫の羽音がブンブンするぐらいの不快感を連続的に与えてくるもんだから、一日中蓄積すると相当きつい。さらに、安静にしていようと思って昼間から寝ていると陽に当たる時間が短くなるもんだから気持ちは余計に鬱屈としてくるし、そもそも喉の痛みが気になって眠りは浅くなるし、たとえ眠れたとしても風邪の時はだいたい嫌な夢を見るから寝起きが凄まじく悪い(友達と大喧嘩してそいつに指名手配され、町中を逃げ回るという夢はなかなかつらかった)。そして、後回しにした設計課題のプレッシャーが追い打ちをかけてくる。気づけば二日後に設計試問だ。ああ、もう、全部風邪のせいだ。全部風邪のせいだー!

 

 

幼い頃、風邪を引いたときに決まって見る夢があった。自分が布団の上で冷凍状態のようになっていて、その横たわっている自分を外から眺め続ける夢。オレンジの豆電球だけをつけた薄暗い部屋で、ただ自分を眺め続ける。夢を見ている時間自体は1分も無かったかもしれないが、なぜだか何百年も何千年もずっとそのままの状態でいる気がしてきて、それは僕にとってたまらなく怖い夢だった。正確に覚えていないが、初めて見たのは幼稚園ぐらいの頃だったと思う。もちろん当時は言語化などできておらず、ただその無限のような孤独感に対しての恐怖をなんとなく抱いていただけだったが、今思えば僕が自分の死というものを意識し始めたのはその時だったと思う。

 

 

小学校に上がるときに家族で福岡から兵庫に引っ越したのだが、その数年後に幼稚園の頃の友人が兵庫に遊びに来て、一緒にUSJに行ったことがあった(当時USJができたばかりの頃だった)。昼間はアトラクションに乗ったりご飯を食べたりして夢のような楽しい時間を過ごし、夜になって帰る直前に「ユニバーサル・モンスター・ライブ・ロックンロール・ショー」というショーを観ることになった。簡単に言うと映画に出てくるゾンビ系キャラクターたちが墓場から出てきて、愉快なトークをしながら歌って踊るぜ!というショーで、まあ多分それなりに楽しんでいたのだが、観ている途中でふと「あ、そうか。あれは墓場で、僕もいつか死んであの中に入れられるんだ」ということに直観的に気付いてしまって、夢のような楽しい時間の終わりに訪れたそのあまりの残酷な現実に耐えられず、ショーの途中で泣き出してしまった。もちろん、さっきまであんなに楽しそうだったのに急に泣き出すもんだから母親には心配されて理由を聞かれたが、当時はこんなことを言葉で説明するわけにもいかず、「友達とお別れするのがさみしい」とかとりあえず適当な理由を言ってごまかしたのを覚えている。昼間に何に乗って何を食べたかなんてひとつも覚えていないのに、こういうことだけはやけに鮮明に覚えているのは皮肉なもんだ。

 

 

かれこれ幼稚園の頃から、僕はずっと自分の死というものをたまらなく恐れていて、この歳になってもそれはほとんど変わっていない。と言ってもいつもいつも怖がっているわけではなくて、陽に当たっている時や人と話している時には大体そんなこと忘れているのだけれど、電気を消して布団に入ってなんとなく眠れないなと思っていると、ふとあの時のショーのように「あ、そうか。僕は死ぬんだ」ということを直感的にわかってしまう日がたまに来る。人生のほとんどのことはどうにでもなるけれど、死だけは圧倒的にどうにもならないということにまず気付いて、そもそも僕が見ているこの目線は絶対的な目線ではなく所詮一人の人間のものでしかなくて、だから僕が死んだあとにはこの目線はもう無くなって、それが無くなったことにも気づけなくて、それから何百年も何千年も何千億年もずっと僕は孤独で、孤独であることも分からずただただ存在しなくて、その間に僕とは関係なく人間は生きて、やがて太陽が恒星としての終焉を迎えて地球も無くなってしまって、やっぱりそのことも僕は分からないまま時間は過ぎていくんだな、とか、そういうことを言葉ではなく直観でわかってしまうのだ。そういう時僕は自分の体がどこかへ飛んで行ってしまうような感覚と、大きな黒い塊に吸い込まれるような錯覚に襲われて、わっ!と思わず叫び声を上げて飛び起きてしまう。そこでやっと自分が今生きていることに気付くのだけれど、それでも自分が死ぬという圧倒的な事実はやっぱり変わっていなくて、ただ布団の上でひとり茫然としてしまう。そういう日が数か月に一回とか年に一回ぐらいのペースで訪れる。まあ僕だって「人間はいつか死んで、棺桶に入れられて、焼かれて骨になるんだ」ということはいつでも言葉では理解できるし、それに対して「いつか死ぬから人は幸せに生きるのさ」とか「死んだ後のことはわからないんだから、考えたって仕方ないよ」と言葉で処理することはいくらでもできるのだけれど、言葉ではなく直観で、一瞬で、その事実に気付いてしまった時にはそんな言葉は通用しなくて、ただその圧倒的な事実の前に恐怖するだけだ。幼い頃には、大人になったらきっといつか怖くなくなるんだろうと思っていたけど、いつまで経っても怖いままだし、いまだにオレンジの豆電球をつけているとあの夢を思い出すし、だから多分僕は自分が死ぬその瞬間まで自分の死を恐れながら死ぬんだと思う。

 

 

 

 

 

そういえばこの前大学の食堂でハヤシライスを食べながら、果たして自分がこのブログを書いている目的は何だろう、と考えていた。文字を書いてそれを公開して、たまに反応が返ってくる、というやり取りで承認欲求を満たすという目的もなくはないけれど、それならFacebookで十分だし、Twitterとかでそういう欲を満たそうと思うことは無いから承認欲求だけじゃない気がするんだよなあ、とかあれこれ考えて結局ハヤシライスを食べ終わるまでにははっきりとは分からなかったのだけれど、今思えば僕はほとんど遺書みたいな感覚でこのブログを書いているような気がしている。自分の死がたまらなく怖くて、それはこの瞬間起こるかもしれなくて、そういうことを考えるけど、考えてもどうしようもなくて、だからどうしようもなく言葉を吐き出して、少しでも自分という混沌とした生の一部をこの地球上に残そうとしているような気がする。そう考えると、「ハルに風邪ひいた」ってのはそういうことなんですかね。思いがけず、我ながら一筋通ったブログタイトルかもしれない。

冬の寒さ対策は死んでも教えないぞ

前日に徹夜をぶちかましたせいで今日は15時ぐらいに起きて、起きたら喉が痛くて、なんだかずっとパンクロックが頭で鳴っていて、喉が痛いのに歌って、歌っていたらお腹が空いて、コンビニに行って、たくさん品物が置いてあって、買いたくもないものが欲しい気がして、とりあえずご飯を買って、帰って、食べて、食べてる途中でまた歌って、食べ終わって、文字を書こうとしたけど何も書けなくて、母親に電話をして、母親の愚痴を聞いて、ツムツムにはまっているようで、ついでに祖母と祖父の命日を聞いて、僕は当時小学生だったらしくて、喉が痛いと言ったら紅茶にはちみつを入れて飲めと言われて、電話を終えて、コンビニに行って、紅茶とはちみつを買って、紅茶とはちみつを買いたかったんだな、と思って、帰って、紅茶にはちみつを入れて飲んで、また歌って、ハーモニカを吹いて、そしたら0時になっていて、Aにラインをして、Aも疲れているようで、Aは悩んでいるようで、死の話をして、戦争の話をして、布団に入って、また歌って、2時になった。

 

なぜ喉が痛い時に限ってパンクロックを歌いたくなるのだろうか、と思ったけれども、考えてもよく分からなかった。

 

母親のことを僕は母親だとばかり思っていたけど、多くの人からは僕の母親は母親ではなく一人の女性だと思われているのだな、ということを生まれて初めて思って、母親は僕ぐらいの年齢の時には何を考えて生きていたのだろうか、ということを生まれて初めて知りたくなった。

 

Aは僕が一度もなりたいと思ったことのないものになりたいらしくて、へえー、と思って、いいですね、と言ったら、いいのかな、と言われたから、いいじゃんと言った。

 

こういう日の積み重ねで僕の脳みそは形成されていくのだなあ、と思って、そう考えるとこういう日も悪くない気がしたけれども、やらなきゃいけないことが全部明日に後回しになって、きっと明日つらい思いをするのでこういう日はたまーに訪れるぐらいがちょうどいいです。

ロッカーとザ・フーとマイジェネレーション

一昨日の夜、突然中学時代の同級生にFacebookで友達申請を送りまくった。とにかく送りまくった。当時話したことがある人にはもちろんのこと、中学時代にほとんど言葉を交わしたことのないような人にも、こちらが名前を覚えている限りとにかく友達申請した。ひとしきり申請すると間もなく数人から承認が返ってきて、そうするとまた「知り合いかも」の欄に同級生が現れて、また申請して、というのを繰り返した。そうやって半ば狂ったように申請ボタンを押しまくった後、ふと思った。

おい自分、なぜこんなことをしたんだ。

しばらく考えた。けどわからん。

あれれ、なぜこんなことをしたんだろう。

わからん。あれ、わからんぞ。

わからんけどなんだか急にやらなければいけないような気がしてしまって、そう思ったときには既にかなりの人に友達申請してしまっていた。もしかしたら申請を受けた同級生は「こいつ急になんやねん」と思っているかもしれない。いや、そう思っているに違いない。なぜなら当の本人が自分に対して「急にどうした」と思っているからだ。

急にどうした、自分。

 

 

先月の9日に、オーストラ・マコンドーという劇団の『息が苦しくなるほどに跳ぶ』という作品を観劇した。地方の高校生たちのある一日と、彼らが成人し30代になったある一日とがそれぞれ断片的に、群像的に描かれていくという物語。初めて観る劇団で、そもそもお世話になった先輩が出演しているからというだけの動機で観に行ったのではじめのほうはあまり期待もせず観ていたのだが、終盤にかけての展開と演出に完全にやられてしまった。それぞれの人間の脳にどうしようもなく張り付いている記憶が一斉に襲い掛かってきて、その圧倒的な身動きの取れなさ、手に負えなさに頭が真っ白になってしまった。あまりにも苦しくてエンディングでは舞台を直視できなくなってしまっていて、カーテンコールの拍手も出来ず、終演後しばらくただ呼吸をしながらぼーっとして、その状態のままアンケートを書いて、そうすると出演していた先輩が客出しで出てきてくれて、その先輩の顔を見た途端自分でもびっくりするくらい泣いてしまった。他のお客さんもたくさんいたのに、良い歳した男子大学生が突然泣き出して、先輩もさすがに困惑していた。僕もこの情けない状況をどうにかしなくては、と思ってとりあえず先輩に何度もごめんなさいと謝りながら、決して劇が気に入らなかったわけではないという旨を片言で伝え、劇場を後にした。帰り道にひとりで色々と考えたが、何が自分をああいう精神状態にさせたかは判然としないまま家に着き、疲れてそのまま寝てしまった。とにかく今まで僕自身があまり振り返ることのなかった部分の記憶をザクッと掘り起こされ、そのままぶちまけられたような感覚がしたことは分かった。

 

 

そういえば中学生の頃、上履きが5回ほど無くなったことがある。ある日登校したら上履きがロッカーに無くて、ありゃ、どこかに置いてきたっけと思ってたらその日のうちに全然身に覚えのないところに落ちてるのを誰かが見つけてくれて、まあ返ってきたのでいいか、と安心してたらまたある日の朝上履きがなくて、ありゃ、おかしいなと思ってるうちにまた見つかって、というのを数週間か数か月スパンで繰り返したのだった。3回目ぐらいの時に手洗い場で水浸しの状態で見つかった時にはさすがにちょっとだけ困ったけれども、なんだかんだ毎回誰かが見つけてくれて手元に返ってきた。別に上履き以外のものを盗られたということもなければ、誰かにいじめられていたという覚えもなくて、ただ純粋に上履きだけが5回無くなった。本当にそれだけだった。特に詮索する気もなかったので真相は分からないままだ。もしかしたら誰かの反感を買って標的にされていたのかもしれないし、あるいは僕のロッカーがちょうど良い位置にあって、たまたまいたずらに使われたのかもしれないし、僕が自分でも自覚がないほどのうっかり坊やで、毎回自分で上履きを放置して帰っていたのを忘れていただけかもしれない。真相はもう分からないのだけれど、少なくとも言えることはこういうことが僕だけでなく学校中色々な人の身に毎日のように起こっていたということだ。誰かが誰かを恨んだり、何かに理由もなく絶望したり、ちょっとしたことで死ぬほど嬉しくなったり、かと思ったら何の感情も抱いていなかったり、そういうことが毎日毎日、学校全体で渦巻いて、いや、渦なんかよりもっと混沌とした状態で混ざり合っていて。その中にいる間はそんなこと考えていなくて、というかそういうことを意識する余裕はなくて、ただその空間で毎日生きて、自分でも制御しきれない自分をそれでも自分として保ちながら過ごしていたのだと思う。オーストラ・マコンドーを見た時に感じたのは、多分そういう空間の圧倒的な身動きの取れなさ、手に負えなさなのだと思う。もちろん記憶のバイアスは大いにかかっているだろうけれど、この歳になってようやくそういうことを外から意識できるようになったのだと思う。

 

 

かれこれこの二日間で、友達申請を送った同級生30人ぐらいから承認が返ってきた。写真を見るとみんなの顔はすっかり大人になっているし、手にはお酒を持っているし、中には結婚してつい最近子供を産んだ人もいるようだし、やはり避けられず大人になっていることを実感する。ただ、どうせ僕が一方的にしか覚えていないだろうと思っていた人からも意外と承認が返ってきたことと、同級生たちの投稿を見ると今でも中学の頃の仲間で遊んだり旅行したりしていることに驚いた。中学一年生から数えてもうすぐ10年が経とうとしていて、それはもう完全に過去の出来事のように思っていたけれども、意外にもあの頃と今は時間的にも空間的にも繋がっているようだ。遠い昔の出来事でなく、確実にあの時間の真ん中を僕らは生きていたのだと感じる。

 

 

 

久しぶりにギターが弾きたくなって、銀杏BOYZの『なんとなく僕たちは大人になるんだ』を弾いた。 

ああ なんとなく僕たちは大人になるんだ

ああ やだな やだな

なんとなくいやな感じだ

まだ自分の中でも大部分は言語化できていなくて、狂ったように友達申請した理由もよく分かっていなくて、多分一年後にはまた違うことを考えているのだろうけれど、まあなんとなく、なんとなーくね。

 

https://www.youtube.com/watch?v=3TYZJA28Cic

 

Feasible Fever

現在、大学四年間の締めくくりの卒業設計として宇宙機人工衛星)の設計をしていて(させられていて)、これがまあなかなかに大変である。僕のいる航空宇宙工学科は工学部の中でもブラック学科と名高いらしく、9月の院試後からヒイヒイ言いながら仕上げた卒論をやっと11月末に提出したかと思ったら、ほぼ休む間なくこの卒業設計が始まる。毎週教授との試問があり、それに向けて学部4年生の足りない知識を総動員して色々と考えるのだけれど、「このミッションは結局何がしたいの?」「サンプル採取って書いてるけど、Feasible(実現可能)なの?」などなど教授陣から鋭い一撃を喰らう。年内最後の試問の終わりに「もちろんお正月もやってね」とサラリと言われた時になんとなく感づいていたが、本当に時間がない。スケジュールがInfeasibleではないか!と主張したいところだが、ぐっとこらえて地道にやっている。なにせ卒業がかかっているのだから意地でもやり通さねば。

 

宇宙のことを考えると途方もない気持ちになる。軌道計算なんかをしていると、「この楕円軌道の遠地点で4km/sだけ加速をして……」などという記述があちこちで出てきて麻痺してしまうが、4km/sである。1秒で4kmである。いや、どんだけ加速するねん。アラレちゃんか。日々血の滲むような努力をして鍛えに鍛えぬいたマラソンランナーたちが2時間もかけて走る距離を、宇宙機はすました顔をしながらものの数秒で通り過ぎるのだ。そしてそれほど恐ろしい速さまで加速しても、お隣の火星に行くのですら何か月もかかる。宇宙は広い。とんでもなく広い。そういうことを素朴に考えるともう、それはそれは途方もない気持ちになる。

 

高校の頃、塾の自習室に座っているのがたまらなくなって、しょっちゅう散歩(現実逃避)をしていた。荷物も持たずに駅前の道をぶらぶらしていると、色んな人が通り過ぎて行って、おばさんが買い物袋を提げてバスを待っていて、高校生が単語帳を見ながら歩いていて、サラリーマンがジャケットを片手に汗を拭っていて、そういう時僕は大体上を向きながら歩いていた。太陽があって、ああ、あれは本当は地球の何百倍も大きくて、何万キロも遠い位置にあるんだな、と確認して、その太陽に照らされた街路樹の葉っぱが風でキラキラと揺れ動くのを見ていた。そうやって自分の世界と宇宙とがつながっているのを実感すると、自分の命は宇宙のゴミにも満たない、ちっぽけでくだらないものなのだと気づくことができて、ホッとするのだった。それは多分悲しいことなのだけれど、僕はそのとき救われて、だから僕はその宇宙の途方もなさを愛しているんだと思う。

 

最近は卒業設計とかなんだかんだ忙しくて、大体は地面ばっかり見ながら歩いているけれども、自分のアパートの階段の最上段に上った時だけはなるべく空を見るようにしている。赤く溶ける夕焼けを見ながら、そうだそうだ、今僕は太陽系の内側から3番目の軌道に乗っている惑星の表面に立っているんだった、と確認をする。立ち止まっている時間は2秒間ぐらいだけども、随分と視野は広がる。忙しくなってもこの2秒間だけは守らなければ。