ハルに風邪ひいた

駆け出し宇宙工学者が気が向いたときに書く方のブログ

冬の寒さ対策は死んでも教えないぞ

前日に徹夜をぶちかましたせいで今日は15時ぐらいに起きて、起きたら喉が痛くて、なんだかずっとパンクロックが頭で鳴っていて、喉が痛いのに歌って、歌っていたらお腹が空いて、コンビニに行って、たくさん品物が置いてあって、買いたくもないものが欲しい気がして、とりあえずご飯を買って、帰って、食べて、食べてる途中でまた歌って、食べ終わって、文字を書こうとしたけど何も書けなくて、母親に電話をして、母親の愚痴を聞いて、ツムツムにはまっているようで、ついでに祖母と祖父の命日を聞いて、僕は当時小学生だったらしくて、喉が痛いと言ったら紅茶にはちみつを入れて飲めと言われて、電話を終えて、コンビニに行って、紅茶とはちみつを買って、紅茶とはちみつを買いたかったんだな、と思って、帰って、紅茶にはちみつを入れて飲んで、また歌って、ハーモニカを吹いて、そしたら0時になっていて、Aにラインをして、Aも疲れているようで、Aは悩んでいるようで、死の話をして、戦争の話をして、布団に入って、また歌って、2時になった。

 

なぜ喉が痛い時に限ってパンクロックを歌いたくなるのだろうか、と思ったけれども、考えてもよく分からなかった。

 

母親のことを僕は母親だとばかり思っていたけど、多くの人からは僕の母親は母親ではなく一人の女性だと思われているのだな、ということを生まれて初めて思って、母親は僕ぐらいの年齢の時には何を考えて生きていたのだろうか、ということを生まれて初めて知りたくなった。

 

Aは僕が一度もなりたいと思ったことのないものになりたいらしくて、へえー、と思って、いいですね、と言ったら、いいのかな、と言われたから、いいじゃんと言った。

 

こういう日の積み重ねで僕の脳みそは形成されていくのだなあ、と思って、そう考えるとこういう日も悪くない気がしたけれども、やらなきゃいけないことが全部明日に後回しになって、きっと明日つらい思いをするのでこういう日はたまーに訪れるぐらいがちょうどいいです。

ロッカーとザ・フーとマイジェネレーション

一昨日の夜、突然中学時代の同級生にFacebookで友達申請を送りまくった。とにかく送りまくった。当時話したことがある人にはもちろんのこと、中学時代にほとんど言葉を交わしたことのないような人にも、こちらが名前を覚えている限りとにかく友達申請した。ひとしきり申請すると間もなく数人から承認が返ってきて、そうするとまた「知り合いかも」の欄に同級生が現れて、また申請して、というのを繰り返した。そうやって半ば狂ったように申請ボタンを押しまくった後、ふと思った。

おい自分、なぜこんなことをしたんだ。

しばらく考えた。けどわからん。

あれれ、なぜこんなことをしたんだろう。

わからん。あれ、わからんぞ。

わからんけどなんだか急にやらなければいけないような気がしてしまって、そう思ったときには既にかなりの人に友達申請してしまっていた。もしかしたら申請を受けた同級生は「こいつ急になんやねん」と思っているかもしれない。いや、そう思っているに違いない。なぜなら当の本人が自分に対して「急にどうした」と思っているからだ。

急にどうした、自分。

 

 

先月の9日に、オーストラ・マコンドーという劇団の『息が苦しくなるほどに跳ぶ』という作品を観劇した。地方の高校生たちのある一日と、彼らが成人し30代になったある一日とがそれぞれ断片的に、群像的に描かれていくという物語。初めて観る劇団で、そもそもお世話になった先輩が出演しているからというだけの動機で観に行ったのではじめのほうはあまり期待もせず観ていたのだが、終盤にかけての展開と演出に完全にやられてしまった。それぞれの人間の脳にどうしようもなく張り付いている記憶が一斉に襲い掛かってきて、その圧倒的な身動きの取れなさ、手に負えなさに頭が真っ白になってしまった。あまりにも苦しくてエンディングでは舞台を直視できなくなってしまっていて、カーテンコールの拍手も出来ず、終演後しばらくただ呼吸をしながらぼーっとして、その状態のままアンケートを書いて、そうすると出演していた先輩が客出しで出てきてくれて、その先輩の顔を見た途端自分でもびっくりするくらい泣いてしまった。他のお客さんもたくさんいたのに、良い歳した男子大学生が突然泣き出して、先輩もさすがに困惑していた。僕もこの情けない状況をどうにかしなくては、と思ってとりあえず先輩に何度もごめんなさいと謝りながら、決して劇が気に入らなかったわけではないという旨を片言で伝え、劇場を後にした。帰り道にひとりで色々と考えたが、何が自分をああいう精神状態にさせたかは判然としないまま家に着き、疲れてそのまま寝てしまった。とにかく今まで僕自身があまり振り返ることのなかった部分の記憶をザクッと掘り起こされ、そのままぶちまけられたような感覚がしたことは分かった。

 

 

そういえば中学生の頃、上履きが5回ほど無くなったことがある。ある日登校したら上履きがロッカーに無くて、ありゃ、どこかに置いてきたっけと思ってたらその日のうちに全然身に覚えのないところに落ちてるのを誰かが見つけてくれて、まあ返ってきたのでいいか、と安心してたらまたある日の朝上履きがなくて、ありゃ、おかしいなと思ってるうちにまた見つかって、というのを数週間か数か月スパンで繰り返したのだった。3回目ぐらいの時に手洗い場で水浸しの状態で見つかった時にはさすがにちょっとだけ困ったけれども、なんだかんだ毎回誰かが見つけてくれて手元に返ってきた。別に上履き以外のものを盗られたということもなければ、誰かにいじめられていたという覚えもなくて、ただ純粋に上履きだけが5回無くなった。本当にそれだけだった。特に詮索する気もなかったので真相は分からないままだ。もしかしたら誰かの反感を買って標的にされていたのかもしれないし、あるいは僕のロッカーがちょうど良い位置にあって、たまたまいたずらに使われたのかもしれないし、僕が自分でも自覚がないほどのうっかり坊やで、毎回自分で上履きを放置して帰っていたのを忘れていただけかもしれない。真相はもう分からないのだけれど、少なくとも言えることはこういうことが僕だけでなく学校中色々な人の身に毎日のように起こっていたということだ。誰かが誰かを恨んだり、何かに理由もなく絶望したり、ちょっとしたことで死ぬほど嬉しくなったり、かと思ったら何の感情も抱いていなかったり、そういうことが毎日毎日、学校全体で渦巻いて、いや、渦なんかよりもっと混沌とした状態で混ざり合っていて。その中にいる間はそんなこと考えていなくて、というかそういうことを意識する余裕はなくて、ただその空間で毎日生きて、自分でも制御しきれない自分をそれでも自分として保ちながら過ごしていたのだと思う。オーストラ・マコンドーを見た時に感じたのは、多分そういう空間の圧倒的な身動きの取れなさ、手に負えなさなのだと思う。もちろん記憶のバイアスは大いにかかっているだろうけれど、この歳になってようやくそういうことを外から意識できるようになったのだと思う。

 

 

かれこれこの二日間で、友達申請を送った同級生30人ぐらいから承認が返ってきた。写真を見るとみんなの顔はすっかり大人になっているし、手にはお酒を持っているし、中には結婚してつい最近子供を産んだ人もいるようだし、やはり避けられず大人になっていることを実感する。ただ、どうせ僕が一方的にしか覚えていないだろうと思っていた人からも意外と承認が返ってきたことと、同級生たちの投稿を見ると今でも中学の頃の仲間で遊んだり旅行したりしていることに驚いた。中学一年生から数えてもうすぐ10年が経とうとしていて、それはもう完全に過去の出来事のように思っていたけれども、意外にもあの頃と今は時間的にも空間的にも繋がっているようだ。遠い昔の出来事でなく、確実にあの時間の真ん中を僕らは生きていたのだと感じる。

 

 

 

久しぶりにギターが弾きたくなって、銀杏BOYZの『なんとなく僕たちは大人になるんだ』を弾いた。 

ああ なんとなく僕たちは大人になるんだ

ああ やだな やだな

なんとなくいやな感じだ

まだ自分の中でも大部分は言語化できていなくて、狂ったように友達申請した理由もよく分かっていなくて、多分一年後にはまた違うことを考えているのだろうけれど、まあなんとなく、なんとなーくね。

 

https://www.youtube.com/watch?v=3TYZJA28Cic

 

Feasible Fever

現在、大学四年間の締めくくりの卒業設計として宇宙機人工衛星)の設計をしていて(させられていて)、これがまあなかなかに大変である。僕のいる航空宇宙工学科は工学部の中でもブラック学科と名高いらしく、9月の院試後からヒイヒイ言いながら仕上げた卒論をやっと11月末に提出したかと思ったら、ほぼ休む間なくこの卒業設計が始まる。毎週教授との試問があり、それに向けて学部4年生の足りない知識を総動員して色々と考えるのだけれど、「このミッションは結局何がしたいの?」「サンプル採取って書いてるけど、Feasible(実現可能)なの?」などなど教授陣から鋭い一撃を喰らう。年内最後の試問の終わりに「もちろんお正月もやってね」とサラリと言われた時になんとなく感づいていたが、本当に時間がない。スケジュールがInfeasibleではないか!と主張したいところだが、ぐっとこらえて地道にやっている。なにせ卒業がかかっているのだから意地でもやり通さねば。

 

宇宙のことを考えると途方もない気持ちになる。軌道計算なんかをしていると、「この楕円軌道の遠地点で4km/sだけ加速をして……」などという記述があちこちで出てきて麻痺してしまうが、4km/sである。1秒で4kmである。いや、どんだけ加速するねん。アラレちゃんか。日々血の滲むような努力をして鍛えに鍛えぬいたマラソンランナーたちが2時間もかけて走る距離を、宇宙機はすました顔をしながらものの数秒で通り過ぎるのだ。そしてそれほど恐ろしい速さまで加速しても、お隣の火星に行くのですら何か月もかかる。宇宙は広い。とんでもなく広い。そういうことを素朴に考えるともう、それはそれは途方もない気持ちになる。

 

高校の頃、塾の自習室に座っているのがたまらなくなって、しょっちゅう散歩(現実逃避)をしていた。荷物も持たずに駅前の道をぶらぶらしていると、色んな人が通り過ぎて行って、おばさんが買い物袋を提げてバスを待っていて、高校生が単語帳を見ながら歩いていて、サラリーマンがジャケットを片手に汗を拭っていて、そういう時僕は大体上を向きながら歩いていた。太陽があって、ああ、あれは本当は地球の何百倍も大きくて、何万キロも遠い位置にあるんだな、と確認して、その太陽に照らされた街路樹の葉っぱが風でキラキラと揺れ動くのを見ていた。そうやって自分の世界と宇宙とがつながっているのを実感すると、自分の命は宇宙のゴミにも満たない、ちっぽけでくだらないものなのだと気づくことができて、ホッとするのだった。それは多分悲しいことなのだけれど、僕はそのとき救われて、だから僕はその宇宙の途方もなさを愛しているんだと思う。

 

最近は卒業設計とかなんだかんだ忙しくて、大体は地面ばっかり見ながら歩いているけれども、自分のアパートの階段の最上段に上った時だけはなるべく空を見るようにしている。赤く溶ける夕焼けを見ながら、そうだそうだ、今僕は太陽系の内側から3番目の軌道に乗っている惑星の表面に立っているんだった、と確認をする。立ち止まっている時間は2秒間ぐらいだけども、随分と視野は広がる。忙しくなってもこの2秒間だけは守らなければ。

あんまんのこと

午前0時をまわり、日が変わった。さっきまでいた「今日」はなかなかしんどかった。

 

自分でも説明のつかない感情というのはどうにも対処が難しい。今日は昼にサークルの友人ととても久しぶりに会って話して、それは別に楽しい時間だったのだけれど、どうにもそのあとずーっと落ち着かない。何か目に見えてわかる不安なことや悲しい出来事があったりしたならまだいいんだけど、特にそうでもないのに気持ちが落ち着かない時はなんともしがたい。卒業設計のミーティングの後パソコンに向かってもやっぱりそわそわして、散歩したりコーヒーを飲んだりするけれども落ち着かなくて、これはもう家に戻って作業しようと思って、家に帰る途中にコンビニで何か買おうと思うんだけども何買えばいいかよく分からなくて、ふとレジ横のあんまんが目に入って、ああそういえばあんまんってもう小学生以来食べてないかもなと思ってあんまんを買って、自転車に乗って帰って、家に着いて、ドア開けて、靴脱いで、電気つけて、暖房いれて、椅子に座って、あんまんかじる寸前にボロボロと涙が出てきた。自分でもよくわからないんだけども、なんだか涙がしばらく止まらなくて、あんまんは期待したほどおいしくなくて、それでも訳も分からず泣きながらあんまんかじって、それから少しだけ落ち着いた。

 

そのあとは頭がぼーっとして、何も手につかないからとりあえずギターを弾いたりYoutubeを見たりネット記事を読んだりしていると、今日は1月17日だった。阪神淡路大震災から22年を迎えたらしい。それを知って、なんだか妙に納得してしまった。ああ、それだったか。別に霊感とかがあるわけでもないけど、この今日の落ち着かなさはそういうことかなと思った。思うようにした。

 

阪神淡路大震災が起こった時、僕は0歳だった。といっても僕は福岡で生まれて、小学校から西宮に引っ越したので震災を直接経験したわけではない。被害が大きかった地域も、僕が引っ越した時にはもうすっかり復興していて、普段の生活をしている分には数年前に大災害が起こった場所であるという意識は湧いてこなかった。けれども毎年1月17日になると学校では全校集会が開かれ、生徒全員で黙祷をし、授業では震災についてのビデオを見せられた。生徒の中には震災の直前・直後に西宮で生まれたという子もいて、母親は死に物狂いで我が子を守ったという話も聞いた。

 

高校に上がって、阪神大震災について学校で学ぶ機会は減った(高校一年の時に東日本大震災があって、阪神大震災がついにひと昔前のものとなりつつある風潮もあったのかもしれない)。大学生になってからは東京にいるし一人暮らしでテレビもあまり見ないしで、ここ三年は震災の日を意識することも少なくなっていた。いま大学四年生にして、再び思い返す。

 

午前0時をまわり、日が変わった。少し遅れてしまったけれども黙祷を捧げることにした。じっと目を閉じて立つ。

小学校の頃、先生が黙祷の合図をして全員が目を閉じ、空気がすっと静まり返る。30秒だったか1分だったか、普段やんちゃしている奴らもみんな、その時間だけは一切の物音を立てずに小さな祈りを捧げる。そういう時間だった。うん、あの日から随分と時間は経ったが記憶はまだ残っている。

部屋でひとり黙祷を終えると、ずいぶんと気持ちは落ち着いていた。

 

 

 

 

 

懐かしのあんまんかじる寸前の

「今生きている」

あんまんかじる

 

 

 

 

 

さっきまでいた「今日」も、なかなか良い一日だったのかもしれない。

甘納豆のうふふふふ

初回投稿の懸念は杞憂となり、無事に第二回の投稿。ただいま、おかえり。

 

 

最近、短歌にハマっていて、「新鋭短歌シリーズ」という現代短歌の歌集シリーズをちょこちょこと読んだり、面白い7文字と5文字が頭に浮かんだときは自分で作ったりしています。なんで今頃短歌なんだ、と思うかもしれません。うん、僕もなんで今頃短歌なんだ、と思っている。

昔、中学校で習ったときには俳句にしろ短歌にしろ、やたらと「~麻呂」とか「~皇子」とかいう名前の人が「蹴鞠が飛んで行ったなあ、雅なり、オホホホホ」みたいな、現代っ子にはとても共感できない内容のことを歌っているイメージ(勝手な偏見)だったし(その割によく分からず暗唱とかさせられるのでますます印象は悪かった)、かと思ったら現代の俳句や短歌に近づくにつれて先生は「最近の作品は価値観も様々でカオスだから解釈がむずかしいのだ~」みたいなテンションであんまり熱心に解釈とかしてくれないもんだから、「ああ、俳句とか短歌って終わった文化なのかなあ」と思っている節があったのかもしれない。

いやしかし中学の先生よ!現代の作品面白いじゃないか!もうちょっと教えてくれても良かったのに!

でもこの話を先日先輩にしたら「わたしは学校の国語の授業で習った短歌面白いと思ったけどなー」って言っていたから、届く人にはちゃんと届いているらしい。先生は悪くない。

 

 

 

学生時代に習ったもので唯一はっきりと覚えているのが、高校時代にY先生が授業で教えてくれた、

三月の甘納豆のうふふふふ

という坪内稔典の句。たしかY先生がある日授業が始まるなり突然、この句を自由に解釈してくださいと言ってみんなに白紙を配ったのだったと思う。周りのみんなは「こんなんテキトーに『うふふふふ』とか言ってるだけだろ」と愚痴をこぼしていたけど、僕はなんだか妙に惹かれるものを感じて、あれこれと考えて楽しく白紙を埋めたのを覚えている。

 

 

 

 

僕は普段から自分の思っていることについて長く話すのが苦手で、というか、同じ意味内容を相手に伝え得るならば出来るだけ言葉は削ぎ落して伝えたいと思ってしまう癖があるので、慎重に慎重に言葉を選んでしまう(そして大体こちらが言い切る前にしびれを切らされて相手に話を持っていかれてしまう)。それは多分、言葉にしたり名前をつけたりすることで失われてしまう色んなものをなるべく減らしたいという思いからくるのだと思う。例えば僕らは道を歩いているだけでも、風が手の甲に当たる感覚とか、信号待ちをしている人のイヤホンから漏れてくる音とか、交番の前を通る時だけ明らかに姿勢をよくする自転車のおじちゃんとか、他にも数えきれないほどのものを感じているのに、それを「道を歩いた」という言葉だけで済ませてしまうのがどうも惜しい気がしてならないのだ。

そして、俳句や短歌はこの「どうも惜しい気がする」を、それでも乗り越えていく芸術だと思う。自分が心動かされたことについて、もし仮に究極的に言葉を尽くすことができればその感動をそっくりそのまま伝えることができるのかもしれないけれど、でもそれは不可能で、むしろ言葉にすればするほどどんどんと薄れてしまう景色があって、だからこそあえて17文字や31文字のギリギリの景色だけを見せる。言葉を打ちとめる。「道を歩いた」だけで風の感覚や音漏れや自転車のおじちゃんまで失わずに伝えようとするわけだ。

僕が今頃になって短歌にハマったのはきっとそういうところで感覚が通じたからだ。中学の頃先生が一生懸命教えていたのも、もしかしたらこういうことだったのかもしれない。

 

 

 

 

木下龍也さんという方の「つむじ風、ここにあります」という歌集が最近読んだ中では一番面白かった。

「かなしい」と君の口から「しい」の風それがいちばんうつくしい風

とか、うーん、良いなあ。こう、色々と解釈してもいいのだけれど、解釈すればするほど色んなものが失われていく気がするのでやーめた。